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青丘文庫研究会月報<224号> 2008年6月1日

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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●青丘文庫研究会のご案内●

 ■第304回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

  6月8日(日)午後1時〜5時 

 @「1920-1921, 在日本朝鮮人社会主義運動の展開に関する若干の

    考察-『大衆時報』臨時号の資料紹介を兼ねて-」小野容照

 A「朝鮮解放直後期における朝鮮人と出入国管理の対抗」鄭祐宗

 ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫  TEL 078-371-3351

 

<巻頭エッセー>

「日本民藝館西館」公開日               足立 龍枝

 

 東大駒場キャンパスのイチョウの大木並木を通り抜けると大学の西門に出る。そして、住宅街を更に100メートルほど西に行くと、日本民藝館駐車場に突き当たる。民藝館本館に行く機会はあっても、西館は初めて。10時開館と同時に館内に入った。西館は、石屋根の長屋門と、それにつながった母屋、すなわち柳宗悦が1961年、72歳で亡くなるまで生活をした自宅からなっている。1934年(昭和9年)ごろの駒場は、竹薮や野原が広がり静かでのどかな郊外だった。兼子夫人が新築する自宅の間取りを考え、図面を引いていたのに、柳は陶芸家浜田庄司から栃木県日光街道沿いで、長屋門が売りに出されていると聞き、それを表構えとする自宅を設計して4か月後に建築を始め、1935年(昭和10年)に完成した。西館の向かいに翌年に建てられたのが日本民藝館、日本最初の私設美術館である。

 西館のうち、今まで公開されていたのは、長屋門の部分だけだった。自宅は、柳が亡くなり、兼子夫人が引越し、誰も住まなくなって40年、倉庫のようになっていた。その「復元」工事が2006年に完成し、開館70周年を機会に月4回公開されるようになった。自宅1階には10畳敷きの広さの洋式食堂があり、1936年(昭和11年)当時から使われていたテーブルが今も置かれている。テーブルは木工家黒田辰秋作で、民芸運動に関わっていた人だ。となりのタタミの部屋との間は、床が一段高くなっている。普段はふすまで仕切られているが、開け放つと16畳の宴会場に変身する。食堂との高低差を少なくし、開け放したとき、できるだけ同じ高さで話ができるようにと考えられていたようだ。

 部屋ごとに天井のデザインが変えてあり、ふすまを開けて2部屋続きにした場合も考えたデザインになっている。戦後落ち着いてきたころに、民芸協会同人との会食風景を写した写真が残されている。柳が隅の方で笑みを浮かべて座っているのが見える。温厚な性格をよく現した写真だと思う。1階40坪、2階32坪の特に広い家ではないが、どの部屋にいても南北に窓があり、家全体が光と風を考えて設計されているという。2か所ある階段にはホールがあり、階段を上がったところにはデザインを施した小さな手洗い場がある。これは便利だ。夫妻いずれかのアイデアだろう。トイレは1936年ごろには珍しい洋式で、4か所もある。

 浴室は公開されていなかったが、シャワーがあり、ガスを使い、台所には湯沸しも設置されている。音楽家である夫人がドイツやアメリカに留学していたので木造家屋の中に洋式がふんだんに取り入れられたようだ。日本風にアレンジしたドイツ料理が食卓に並ぶこともあったと、3男宗民氏の文章に書かれている。2階の南側真ん中に書斎がある。貴重な蔵書が多いからだろうか、この部屋専用の学芸員が隅のほうに座っていた。知っている本が並んでいるかもしれないと、ざっと目を通していると、『大日本麦酒(現アサヒビール)三十年史』があった。そのことを学芸員に話すと、急に席を立ち、親しく話しかけ案内をしてくれた。他に見学者が2人ぐらいと少なかったのも話しやすかった。

 アサヒビールの社長であった山本為三郎や倉敷紡績社長の大原総一郎が、柳宗悦や浜田庄司の民芸運動のよき理解者として、経済的な援助を惜しまなかったことは有名で、倉敷の大原美術館工芸館・京都の大山崎山荘美術館の展示品は2人のコレクションだ。今は山本の孫の世代になっていると思うが、民藝館の東隣が山本邸だと教えてもらった。柳が亡くなるまで、山本との間に民芸運動の話が飛び交ったことだろうと想像する。

 学芸員の話だと、書斎のあらゆるところに、夫妻の創意工夫が凝らされている。作り付けの書棚の下半分はすっきりしたデザインを施した引き出しや開き戸になっている。また愛用した柳のデザインによる机は仕事がしやすいように大きく、対照的に椅子は、軽くて動かしやすいように工夫されている。手の届く手すりや戸棚などに面取りがしてあったのもやさしく印象的だった。書斎の東側には10畳の和室があり、普段は夫妻の部屋だが、イギリスの陶芸家バーナードリーチが1年間ほど居候した部屋でもある。文芸仲間が多く出入りしていたことも学芸員から聞いた。韓国での柳の存在についても話がはずんだ。

 40年間も使用されていなかったので、復元工事に難点もあった。老化が目立ち、基礎が沈下していたために、建物の垂直や水平が狂い、雨漏りが目立った。工事が遅きに失したと思われていたが、ほぼ70年前の姿に忠実に復元できた珍しい建築だといわれている。工事が完成した時、関わった棟梁をはじめ職人15人ぐらいで座談会をした。そのときの記録がある。

「実は、今まで本格的木造建築の仕事をしたことがないんです」……大工 

     (15人の感動的な言葉が続きますが、長くなりますので省略します)

「つつがなく仕事ができた背景には、何か目に見えない超自然的『偉大な力』が働いていたと思わざるを得ない」……建築

 職人さん一人一人の言葉から、あるいは復元工事によって甦った旧柳宗悦邸から、柳宗悦や民芸運動について考えてみるチャンスを与えられたような気がする。(5月19日)

 

第303回「在日朝鮮人運動史研究会関西部会」(2008年5月11日)

 @「マンガン記念館のこと」  李 龍植さん

 A「ウトロまちづくりにむけて。近況報告」 斎藤正樹

                             報告 斎藤正樹

 

@「丹波マンガン記念館」について、館長の李龍植さんにお話を伺った。1989年に開館した「丹波マンガン記念館」(京都市右京区京北)は戦前・戦後の朝鮮人の鉱山労働の跡を直接見ることのできる数少ない現場の一つである。しかし、早ければ来年5月にも閉館する、と報道されている。(京都新聞5月9日付)。

「丹波マンガン記念館閉山」。京都市右京区京北下中町。朝鮮人強制労働歴史伝えて20年。来春にも、入場者減、老朽化で。

 京都市右京区京北の「丹波マンガン記念館」が早ければ来年5月にも閉館することが9日、分かった。強制連行された朝鮮人労働者による鉱山での採掘作業の歴史を20年近く伝えてきたが、来場者の減少や施設の老朽化などから継続していくことが困難になり、「最後にも一度見ておいてほしい」と呼びかけている。

 同館はマンガン鉱山で働き、のちに経営にも携わった故・李貞鎬(イ・ジョンホ)さんが、強制連行された朝鮮人の歴史を語り継ぎたいと1989年に開設した。約300メートルの坑道めぐりや戦時中の強制労働者の暮らしを再現した宿舎、労働者の証言などを紹介した資料館があり、ピーク時には年間2万人を集めた。

 貞鎬さんの死後、息子の龍植さん(48)が遺志を引き継いで館長となって運営にあたっていたが、京都縦貫自動車道の一部開通など周辺の交通量が激減したことなどから、来館者数は年間3000に程度まで落ち込んだ。2002年には運営母体をNPO法人化し、寄付金を集めて立て直しを図ったが、経営難が深刻化。継続するには今後も施設の更新などが必要になるため、先月の理事会で閉館を決めた。

 龍植さんは「最近は北朝鮮による日本人拉致問題で強制連行の問題意識が薄れてきたのではないかと感じる。加害の歴史を隠さず示すことが、戦争を繰り返さないための道だということを知ってほしい」と訴え、閉館後は個人的に著書などでマンガン鉱山の歴史について発信したいという。/火曜休館。問い合わせ0771−54−0046。

 李龍植さんは、マンガン鉱石を手に持って、狭い坑道を掘って、マンガン鉱脈をダイナマイトで崩して、採掘する重労働の様子を具体的に説明された。龍植さんのアボヂ、初代館長の李貞鎬(イ・ヂョンホ)さんは「じん肺による呼吸不全」で、1995年に死去された。享年62歳。2歳のときに渡日した貞鎬さんは、各地の鉱山を渡り歩き、ここ京北町に定住され、戦後は企業から経営を譲りうけたが、安いマンガンが海外から輸入されるようになると、日本の鉱山は軒並み閉山に追い込まれた。お骨は舞鶴の海に散骨されたとのこと。いまの記念館は親子が手作りで作ったものである。

 重要な見学施設のはずが、国や地方公共団体からの公的な補助はなく、施設も老朽化し、毎年600万円以上の赤字が続いて、もうこれ以上維持することはむずかしい。家族経営で20年近く頑張ってきたが、少なくいとも年間3万人が来ないと採算に合わない。数年前に歌手の新井英一さんのコンサートがここで開かれ、500人が集まった。それ以来、ここを訪ねていない人も多いと思う。以上、李龍植さんから、深刻な現実と貴重なお話をいただいた。

 

A「ウトロまちづくりにむけて(近況報告)」。

 在日朝鮮人集落・ウトロ立ち退き問題(京都府宇治市伊勢田町)について、最近の動きと今後の問題について。以下、報告した。

 昨年の後半、日本と韓国の支援運動によって事態は劇的に好転した。韓国ソウルでウトロ住民を支援する韓国の市民団体・ウトロ国際対策会議と地主の(有)西日本殖産は、ウトロの土地の約半分(約10500平方メートル)を、ウトロ住民側に5億円で売買する合意書を交わした。長く対立してきた両当事者の妥協が初めて成立したことで、ウトロ住民は強制立ち退きの危機から一旦、脱することができた。つづいて韓国の市民運動が韓国政府を動かした。韓国の青瓦台(大統領府)は昨年10月、「同胞愛と人道主義の精神で(ウトロ)問題解決に積極的に努力する」と表明し、立ち退きが迫られている在日韓国人の居住地確保のため、ウトロ地区の土地買収に韓国予算から30億ウオン(約3億円)を資金援助する方針を決定し、「これがよい前例になることを期待する」と述べた。年末にウトロ支援を含む08年度韓国予算が成立すると、ウトロ住民に喜びの声が広がった。在日1世の金南用さん(78)は「もし強制執行が来たらブルドーザーでこの家を壊す前に、私の体を潰せ」と口癖のように語っていたが、この決定を「本当にありがたい」と涙を流した。

 住民と守る会は、日本政府・冬柴国土交通大臣にウトロを救済するように直接訴えた。韓国からの影響を受けて日本政府と地方自治体が動き出し、問題解決の機運が表面化した。昨年12月、国土交通省・京都府・宇治市の行政側連絡組織「ウトロ地区住環境改善検討委員会」が発足した。遅れている上下水道整備など劣悪な地域住環境の整備や公的住宅建設など、今後のまちづくりの方策が検討され、今年2月には行政による初めての実態調査がウトロで実施された。

 ウトロ住民は在日朝鮮人コミュニティとその文化を守りながら、周辺の日本社会と共生してこの土地に住み続けたいと願っている。ウトロの土地は戦後、朝鮮人集落の中でしか生きる場のない貧しい「在日」住民の生活のすべてを支える基盤であった。地上げに苦しんだウトロ住民の苦しい経験を教訓化するならば、ウトロの新しいコミュニティの中心は、土地の商品化を廃した共有財産・コモンズ(共有地)としてあるべきであろう。ウトロ住民の要求の中心は、ウトロ地区での住環境整備事業の実施を前提に、@みんなが暮らせる公的住宅と高齢者福祉施設の建設、Aウトロ・在日の歴史を継承する歴史記念館(仮称)の建設、B多くの周辺市民に開かれたコミュニティ・センターの建設の三点である。新しいウトロのまちは在日朝鮮人の苦難の歴史を刻むまちとして、明るい展望をもって未来に引き継がれなければならない。

 ウトロ住民はいま、国土交通省から紹介された「住環境整備事業の実施例」を、@みんなが暮らせる公的住宅と高齢者福祉施設の具体例として、住民が一緒に見学することで、新しいまちづくりのイメージを広げる作業をしている。Aウトロ・在日の歴史を継承する歴史記念館(仮称)についても同じである。

 そこで、今回参考として紹介されるのが「丹波マンガン記念館」である。勿論、ウトロと丹波マンガンではその条件は対極にあるが、両者をつなぐ歴史は重なりあう。ウトロ在住の1世(十数人)の多くはハルモニであるが、数年前に亡くなった1世の男性のうち2人は「じん肺」であり、飛行場建設の土木現場・ウトロに流れ着く前の労働は炭鉱、鉱山やトンネル堀りであった。

 いま、ウトロ住民は強制立ち退きの危機が去って、不安な顔がやっと笑顔に変わった。表のタテカンも「闘いのシンボル」からソフトな未来志向の絵看板に変わった。B多くの周辺市民に開かれた在日コミュニティにするのが次の目標だが、見えない壁(社会的排除)の存在は大きい。私は、周辺の宇治市民を対象としたウトロ現地案内を意識的に続けていくつもりだ。

 ウトロの現地案内、次回は5月31日(土)午前10時から12時。集合場所は、ウトロ地区の中心「ウトロ広場」(ここに面してデイサービスセンター「エルファ」がある)。近鉄伊勢田駅から西にまっすぐ徒歩8分。伊勢田建設の事務所を過ぎて左側に、ウトロの絵看板、ここを南(左)にまがってすぐ。なお、「コリアン・マイノリティ研究会]では、7月〜9月に「丹波マンガン記念館」ツアーを企画したいとしている。

 

【今後の研究会の予定】

 7月13日(日)、在日(山根実紀)、近現代史(愛沢革)。8月は休み。9月14日(日)、在日(砂上昌一)、近現代史(梶居佳宏)。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 

 

【月報の巻頭エッセーの予定】

 7月号以降は、太田修、金慶海、斉藤正樹、坂本悠一、高野昭雄、塚崎昌之、土井浩嗣、中川健一、玄善允、松田利彦、三宅美千子、吉川絢子、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

 

【編集後記】

           今回は(?)月報の発行が遅くなってしまいました。6月の研究会の日程は予定どおり第2日曜日の6月8日です。在日の報告が2本です。

           7月21日(月、休日)午後0時、神戸港強制連行の石碑がいよいよ建立です。南京街南、華僑歴史博物館のあるKCCビル前です。ご参集ください。飛田雄一 hida@ksyc.jp

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