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青丘文庫研究会月報<214号> 2007年6月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

()神戸学生青年センター内  TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000

     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。

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■青丘文庫設立35周年/神戸市立中央図書館移転10周年/記念講演会

 日時:2007年6月10日(日)午後2〜5時

        午後1時〜2時に見学会を行ないます。

 会場:青丘文庫(神戸市中央区楠町7-2-1 TEL 078-371-3351

         (地下鉄大倉山駅下車すぐ、JR神戸駅北10)

 講演@「朝鮮史研究と青丘文庫−韓皙曦さんと青丘文庫設立のころ」

                       朝鮮史研究家・姜在彦さん

 講演A「青丘文庫所蔵資料と青丘文庫研究会」 京都大学教授・水野直樹さん

 参加費:無料

 

●<巻頭エッセー>

戦後大阪の華僑メディアと在日朝鮮人  宇野田 尚哉

 戦後の大阪には,『国際新聞』という華僑メディアが存在していた.19451027日に創刊された夕刊紙で,戦後大阪の新興紙の第1号となった同紙は,関係者の回想文集『国際新聞の思い出』(「コクサイ友の会」文集編集委員会編,1997年)によると,用紙割当の厳しいなか,“唯一の在日中国人のための日刊紙”として認可されたのだという.

 私は,これまでにも,解放後の大阪の左派在日朝鮮人運動について調べるなかで,この新聞の名前を目にしたことが幾度かあった.たとえば,大阪朝鮮人文化協会発行の『朝鮮評論』第1号(195112月)では「国際新聞社後援のもと」「アジア民族展」が着々と準備されつつあると報じられているし,また,『吹田事件現地ルポ・闘いの記録』(日本国民救援会大阪本部・在日朝鮮人解放救援会発行のパンフレット,脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』所引)によると,吹田事件の際の待兼山での集会では,『朝日』や『毎日』の記者が取材を拒否されるなか,「『国際新聞』だけは良心的な報道を行っている点をみとめ取材を許可された」という.終戦直後に大阪で創刊された『国際新聞』は,中国革命が進展するなか新中国支持の新聞となっており,50年代には左派在日朝鮮人運動との接点も持つようになっていたのである.

 私がいま調べ始めかけているのは,この『国際新聞』の読者投稿欄・読者文芸欄である.というのも,時期によってはこれらの欄の投稿のかなりの部分が在日朝鮮人からの投稿であり,50年代の在日朝鮮人史を考えるうえで何らかの手がかりになるのではないかと感じられるからである.たとえば,同胞男性の同胞女性蔑視を批判する朝鮮人女性からの投稿が1956422日に掲載されると,25日から29日まで連日それに関係する投稿(そのうち4通は朝鮮人男性からの反論)が掲載され,のち517日には東成区の朝鮮人会館でこの問題をテーマとする読者懇談会が開かれているが,このような状況はほかの新聞ではちょっと考えられないだろう.(なお,投稿のなかには大村収容所内からのものなどもあり,投稿者の範囲が大阪に限定されていたわけではない).読者文芸欄のほうも,時期によっては掲載されている詩作品の半分近くが朝鮮人の作品であり,作品を発表する場を持たない朝鮮人が華僑メディアの読者文芸欄を活用していた様子がうかがわれる.

 このあたりのことについて,『国際新聞』の学芸欄にしばしば登場する詩人の金時鐘さんに直接お尋ねしてみたところ,『国際新聞』は朝鮮人の読者が多く,朝鮮人の記者もいたというお話をうかがうことができた.上記の回想文集のなかではまったく触れられていない点であるが,『国際新聞』はかなりの朝鮮人読者をもっていたようなのである.経営の苦しかった国際新聞社の側にも,朝鮮人の購読者を積極的に開拓しようという意図があったのかもしれない.

 ちなみに,『国際新聞』の読者文芸欄は,1958年初めに国際新聞社の経営が行き詰まり経営権が日本人の手に渡って紙名も『大阪新夕刊』と改称されたあとは,選者であった木場康治,常連投稿者であった福中都生子によって創刊された詩誌『詩炎』に引き継がれていくことになる.このような経緯で創刊された『詩炎』は,毎号数編の朝鮮人の詩作品が掲載されているという点で,戦後大阪の詩運動のなかでも異彩を放っている.

 政治や経済よりも文化の領域に関心がある私にとっては,『国際新聞』の読者投稿欄・読者文芸欄はとても興味深い資料である.とはいえ,まだ調べ始めたばかりで,思わぬ事実誤認や,先行研究の見落としがあるかもしれない.ご教示を乞う次第である.

 

●第290回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(200748日)

「在日的経験」と「同胞契約」           玄 善允

1.『海峡を越えたホームラン』、『ソウルの練習問題』などで韓国朝鮮通のニューウェイブとして脚光を浴びた関川夏央は、その後、彼自らが「在日小説」と総称した短編集『水の中の八月』の文庫版後書きで、典型的な「症例」として李良枝の『由煕』を挙げつつ「在日」朝鮮人文学を酷評し、その延長上で、「在日」の民族主義イデオロギーを断罪し、結論的に、「在日」は日本人となって、雄雄しく生きるべきと督促している。

2.       その「在日」批判及び帰化の督促に触発された私は自らの「在日的経験」を洗いなおしつつ、小説『由煕』の読み方のレベル、在日朝鮮人文学総体のレベル、そして在日の民族主義イデオロギーの諸相のレベルなどの個々における反論を試みた。

3.       とりわけ、在日の民族主義を以下のように3層に分けてみた。@一世が祖国から持ち込んだ、「肉体化した文化」、祭祀、対人関係の結び方などがその中核にある。A民族差別の厳しい異郷の地で、対抗性を深めつつ共に生きざるを得なかったことから、差別に対抗する民族主義。民族的出自で世界を切り取る考え方、感じ方である。Bそうした2層を集約し、糾合する政治的な民族主義、これは植民地化の民族解放運動の主流をうけて、左翼的なものに他ならず、とりわけ、北の地で具体的に国家を形成するにいたった「共和国」の影響を強く受けるものになった。在日の解放をもっぱら祖国の解放に収斂させる

4.       関川が批判の対象としているのは、何よりもこの第3の層なのだが、私の考えによれば、「在日」の民族イデオロギーは単にイデオロギーではなく、集住しているか否かを問わず、一種の「在日のムラ」の形で生活の具体的なレベルで「リアル」かつ人を生かしめるものであった。さらには、差別抑圧と監視に対抗するために、集団的紐帯を強め、あげくは在日を束縛せざるをえなかった、という歴史的な事情もあった。

5.       但し、このムラが拡散・崩壊を云々される時代に立ち至り、善があたかも自明とされてきた民族主義の負の側面、とりわけ、民族の名の下における「在日」の「在日疎外」を問題にすることを余儀なくされてくる。一世と異なり、後続世代にとっての「在日」的経験とは、もっぱら民族的な対抗性に集約されるものではなく、「在日的存在」を絶えず生産、再生産する社会への対抗性である。これこそ「在日的経験」の核であり、それは必ずしも民族主義イデオロギーに収斂するものではない。

6.       もっぱら出自を問い、帰属を最優先する民族主義が人を呪縛する傾向があるのに対し、それを脱構築して、同胞契約なるアイデアを思いつくにいたった。民族を先験的なものと見るのではなく、むしろ個々人が積極的に選び取って、共感を発動させるものに出来ないかというのである。これは夢想の色合いが強いことは重々承知の上で、こうした「思いつき」の助けを借りて、硬直しかねない同胞関係、対他関係に爽やかな風を呼び込みたいというのである。

7.       その延長で、帰化をいかに考えるかという問題に到達する。帰化か反帰化かといった二律対立の奥に、実は国籍や民族的出自に還元できない対立軸がある。様々なマイノリティを絶えず産出し、構造的な差別によって成り立つ社会に否定を突きつけて生きようとするとき、民族的出自は必ずしも第一義の問題ではない。出自を越えての共感、連帯の可能性がそこには見えてくるに違いない。

 

 以上が、私が数年来頓挫を繰り返しながら完成に努めている未刊の本『在日との対話は可能か?』(仮称)の梗概であり、そのエッセンスを研究会でお話して、意見を伺った。

 

●第249回朝鮮近現代史研究会(2007513日)

博文寺について―植民地都市京城の伊藤博文菩提寺―  水野直樹

 193210月、ソウル(当時京城)南山の東のふもとに伊藤博文の菩提寺として博文寺が造営された。

 伊藤が統監だった頃、秘書官を務めていた児玉秀雄が1929年に朝鮮総督府政務総監に就任すると、伊藤を顕彰する施設を朝鮮につくることを提唱したのが発端である。朝鮮と日本の政財界人を中心に「財団法人伊藤博文公記念会」が組織され、募金を始めた。

記念会は、「伊藤博文公の徳風を敬仰し、赫々たる偉業を永く後世に記念する」「公の冥福を追修し併せて朝鮮に於ける仏教の振興を期し、精神的結合を図り、以て朝鮮統治に貢献」するために、仏教寺院を建設することを目標とした。記念会の理事や実務担当者に多くの総督府の役人が入っており、事務所も総督府内に置かれたので、実質的には総督府の事業であった。奨忠壇公園東の高台(公有地)を敷地とし、さまざまな面で優遇措置を受けたのは、そのためである。

 博文寺の設計には、東京帝国大学建築学教室の教授伊東忠太が関わった。伊東は朝鮮神宮の基本設計も担当した人物であり、博文寺の地理的位置も考慮に入れていたのではないかと思われる。つまり、京城市内の北に総督府、南西に朝鮮神宮、南東に博文寺を置くことによって、京城を取り囲み、日本が支配する植民地都市として性格づけるというアイデアである。

博文寺の本堂は伊東の設計になる鉄筋コンクリートづくりで、鎌倉時代の禅宗寺院様式に「朝鮮風を加味した」ものといわれる。門は朝鮮王宮のひとつである慶煕宮から移築し、景福宮からもいくつかの建物を移した。

 このように総督府の肝いりでつくられた博文寺であったが、伊藤の墓もなく、檀家もない寺であったため、資金面で困難に直面し、計画どおりの事業を行なうことができなかったようである。曹洞宗の本山から住職が派遣されてはいたが、仏教の法話をしたり、それを掲載する雑誌を刊行する程度にとどまった。

 博文寺のより重要な役割は、「観光地」としてのそれであった。1930年代の日本では、「大陸旅行」ブームが高まり、朝鮮や「満洲」への観光や視察、あるいは修学旅行が盛んになった。京城に立ち寄った旅行者の見学先の一つに博文寺が組み入れられ、博文寺は旅行者たちに伊藤の「赫々たる偉業」を思い起こさせる場所となった。

 日中戦争の時期には、戦死者の慰霊祭、「韓国併合功労者感謝慰霊祭」(193911月)など国家的な行事が催されている。193910月、伊藤の死去30年目の法要には、上海に住む安重根の息子安俊生が参列し、父の「罪」を霊前に詫びた、と新聞に報じられている(これについては、さらに詳細に検討する必要がある)。

 解放後、博文寺がどのようになったかについては、不明の点が多い。一時、仏教系青年・学生の寮として使われていたが、韓国政府の迎賓館が新たに建てられ、1970年代に韓国最高級ホテルの新羅ホテルとなったことを知り得るだけである。

【今後の研究会の予定】

 7月8日(日)在日・塚崎昌之、近現代史・アンダーソン、8月は休みですが東京で別項の日韓合同研究会を開催します。9月9日(日)、在日・梁明心、近現代史・孫正権、研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。

【月報の巻頭エッセーの予定】

 7月号以降は、金誠、佐藤典子、佐野通夫、田部美智雄、張允植。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

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第3回在日朝鮮人運動史研究会 日・韓合同研究会のご案内

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■日時:2007年8月4日(土)午後1時〜5日(日)午後

    研究発表討論(4日午後、5日午前)と韓人歴史資料館見学(5日午後、予定)

■会場:大阪経済法科大学・東京麻布台セミナーハウス

   (東京メトロ〈地下鉄〉日比谷線・神谷町駅、都営地下鉄大江戸線・赤羽橋駅下車)

■費用:参加費¥1,000(資料代込)、

    懇親会費¥5,000(学生・韓国からの参加者には割引があります)

■宿泊:大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス、

    費用は和室(3人)で一人¥4,000。ベッドルームは¥5,000です。

■主催:在日朝鮮人運動史研究会関東部会(代表・樋口雄一)

■共催:在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

    韓日民族問題学会(代表・崔永鎬)

■申込締切:2007715日(日)

■問い合せ・申込先:在日朝鮮人運動史研究会関西部会

 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 神戸学生青年センター内

 飛田雄一(ひだ ゆういち)TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878

 e-mail hida@ksyc.jp

 

【編集後記】

 青丘文庫が大倉山に移転してから早いもので10年になります。青丘文庫の須磨寺の韓皙曦先生のご自宅にあったときのこと、更にそれ以前の長田のケミカルシューズのビルの4階にあったときのことを懐かしく思い出します。記念行事ご参加よろしく。 飛田雄一hida@ksyc.jp

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