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青丘文庫研究会月報<202号> 2006年2月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。=========================================================================

●青丘文庫研究会のご案内●

■第280回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

2006年2月12日(日)午後1時〜3時

「1925年の<東洋無産階級提携>論について」黒川伊織

■第238回朝鮮近現代史研究会

2月12日(日)午後3時〜5時

書評「韓国女性ホットライン連合編、山下英愛訳『韓国女性人権運動史』2004年、明石書店」堀添伸一郎

 

※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫

  神戸市中央区楠町7-2-1 TEL 078-371-3351(地下鉄大倉山駅下車すぐ、JR神戸駅北10)

 

第277回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2005年11月13日)

1970年福岡県田川市における在日朝鮮人の国籍書き換え問題に関する研究」李敬史

 報告では、197081314日にかけて、福岡県田川市において在日朝鮮人の外国人登録証明書の国籍欄の記載を「韓国」表記から「朝鮮」への変更が受理されたことをきっかけに全国的に「朝鮮」表記への書き換えをめぐる運動が展開された事例を報告した。

 現在、在日朝鮮人が外国人登録証明書の国籍欄の記載を書き換える為には、本人が在住している地方自治体の役所で申請をしなければならない。この際、申請事例としては、「朝鮮」表記から「韓国」表記に変更する事例と、「韓国」表記から「朝鮮」表記に変更する事例の2通りが存在するが、変更を行うための条件が両方の事例では異なる。

 前者の場合、つまり、「朝鮮」表記から「韓国」表記へ変更をする場合は、大韓民国発給の正式旅券の写し又は大韓民国の在外国民登録法に基づく在外国民登録証(国民登録証)を提示すれば認められる。これに対して、後者の場合、つまり、「韓国」表記から「朝鮮」表記へ変更をする場合は、本人及び本人の父がそれぞれ、大韓民国の正式旅券の発給の経験がなく、大韓民国の国民登録の申請を行っていないこと、かつ、協定永住の資格を有していないという計6点が全て証明されれば、認められる。

 特に、後者の「韓国」表記から「朝鮮」表記への書き換えに関しては、1971227日付の法務省管登甲合第1810号通達に条件が記載されており、条件を満たせば変更は可能である。しかし、現在、日本社会及び在日朝鮮人社会において、「韓国」表記から「朝鮮」表記への変更は基本的に不可能であるという認識が一般的である。

 この、条件付で「韓国」表記から「朝鮮」表記への書き換えを認めている1810号通達が出された背景には、197081314日の両日に福岡県田川市が「韓国」表記から「朝鮮」表記への書き換えを認めたことを皮切りにして、全国的に「韓国」表記から「朝鮮」表記に国籍欄の記載を書き換えるための運動の存在が要因となっている。

 しかし、この国籍書き換え運動が、在日朝鮮人自らが国籍選択という権利獲得の為に行ったという性質から考えると、同時期に行われた他の在日朝鮮人運動と同種のものであるにも関わらず、現在において、国籍書き換え運動を事例を取り扱った研究は少ない。在日朝鮮人運動史に関する文献にも一部分で事例が取り上げられている程度である。

 このような意味において、在日朝鮮人の国籍書き換え運動の事例は、現在の在日朝鮮人の国籍問題に関する研究における一考察として、及び、日本、そして在日朝鮮人社会において、国籍選択の認識を与えるものとして、事例をまとめる必要があると考えたのである。

 文献調査や現地での聞き取り調査を行い、資料が集まっていく段階で、国籍書き換え運動が、単に地方と国との係争ではなく、在日朝鮮人自身が「朝鮮」表記に変更する権利獲得ためのものであるという性質を有していたとともに、朝鮮総連の勢力維持のために国籍書き換え運動が行われたという状況も見えてきた。

 

279回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(200618

「融和碑と見られていた『鬼城繁太郎氏永世不忘碑』(1928年・京橋)の再検討」

塚ア昌之

 「鬼城繁太郎氏永世不忘碑」は、192812月、大阪京橋駅の近くにあった玉井硝子工場の朝鮮人職工45名が醵金して、「有難い『おやぢ』さん」に対する謝恩のために建てた碑である。玉井硝子工場は1936年に移転したが、2000年頃まで、寝屋川に面するその地に建っていた。現在はマンション建設に伴い、天王寺にある統国寺に移転されている。

 この碑に対する本格的研究はないが、故金英達氏が当時の新聞報道に「内鮮融和」という言葉がたびたび用いられたことや、「内鮮協和会」が出てくることを根拠に、「内鮮融和運動」と関連付けて、この碑の性格を推定した。ところが、建碑の過程等を追っていくと、当初は「融和碑」の意味を持っていなかったことがわかってきた。以下、その論拠となることを箇条書きしてみる。

@建碑の計画が浮かんできた当初は、警察当局は建碑に否定的であったこと。また、内鮮協和会には人の集まる場所に碑が建てられるよう朝鮮人職工たちが嘆願書を送っただけであり、それに対し、内鮮協和会が動いた様子はないこと。

A玉井硝子の日本人職工は鬼城繁太郎から「利益分配まで受けている」と語っており、日本人職工も鬼城繁太郎を慕っており、朝鮮人職工と日本人職工の関係も良好なこと。

B鬼城繁太郎は、他にも朝鮮人の活動の支援を行っていること。1930年、大阪の被差別部落に作られた朝鮮人の野球チームが金銭的に困っていることを知ると百円の金をカンパした。また、1932年、大阪で朝鮮人として最初に総選挙に立候補した李善洪に対しても選挙資金百円を出し、最大の支援者の一人となった。

 ※李善洪については『季刊Sai』2004年夏秋第51号を参照のこと(従来、言われてきたような御用団体の長ではなく、水平社や衡平社とのつながりも持つ人物である)

C全国水平社の機関紙の『水平新聞』に名刺広告を2回大きく出していること。特に1929310日号は発禁処分直後であり、発行者が財政的に非常に困っていた時期であった。

D戦前から大阪に住み、戦後は『日本のなかの朝鮮文化』の編集長をした在日1世の鄭貴文氏が、1984年にこの碑をモチーフにした短編小説『透明の街』を書いた。その中で鬼城繁太郎を好意的に見ており、また、建碑の中心となった朝鮮人職工を白丁出身として描いている。鄭貴文氏の経歴から見て、根も葉もないような話を書くとは考えられないこと。

 しかし、警察側はこの碑を建てる許可を与えた直後から、態度を一転させ、この碑、そして朝鮮人職工を「内鮮融和の美談」として利用し始める。労働者たちの純粋な気持ちを政治的に利用したのである。その動きに応えるかのように、193111月、「満州事変」で犠牲になった朝鮮人に対する「在満罹災朝鮮同胞同情金」に、鬼城繁太郎、朝鮮人職工、日本人職工は競争するように醵金し、国策の協力者となっていった。

 なぜ、鬼城繁太郎は朝鮮人や水平社に強い関心を持っていたのだろうか。鬼城繁太郎が被差別部落出身であった可能性もあろう。鬼城という名字は珍しいものであるが、鬼城繁太郎の親族は大阪でも、彼の生地である奈良県でも見つからない。鬼城が本名でなかった可能性も追求しつつ、ぜひ、鬼城繁太郎の関係者を見つけたいものである。

(※塚崎さんの発表のテーマが案内で間違っていました。編集者のミスで、それ以前の発表のテーマをコピーしてしまったものです。塚崎さん始めみなさまにご迷惑をおかけしました。)

 

238回朝鮮近現代史研究会(2005.12.11

「朝鮮総督府の墓地政策―その目的と影響―」 高村竜平

 日本による朝鮮の植民地化過程における懸案のひとつが墓地の管理であったことは、比較的注目されていない。だが、土饅頭が山野に散在するという朝鮮の墓制は、農林業は当然のこと、鉄道や基地の設置あるいは鉱山開発など、あらゆる開発に障碍となったため、統監府時代から日本人官僚による墓地にかかわる慣習調査が行われ、併合直後の1912年には「墓地火葬場埋葬及火葬取締規則」(以下「墓地規則」)を発布して墓地を規制しようとした。

 朝鮮時代には、父系血縁集団が組織されるにともない、集団の先祖の墓地である先山が形成された。また、墓を設置することはその周囲の山林を占有することをも意味した。このことと、墓の位置が子孫の運命に影響を及ぼすとする風水の考えにより、墓地をめぐる土地紛争である山訟が頻発した。一方で、先山を形成したり風水上の吉地に埋葬する余裕のない人々は「北邙」とよばれた管理者のいない山林に埋葬したが、ここでは血縁や居住地とは関係なく誰もが埋葬し、周囲の土地への権利も発生しなかった。「墓地規則」は共同墓地への埋葬と墓籍の提出を義務づけたが、その際日本人官僚は朝鮮時代の北邙を「共同墓地」とみなし、制度化した。墓地規則においては、散在している墓地を集中することで土地利用の効率性を高めることが企図されていたが、それだけでなく植樹により墓地を「美化」すること、共同墓地にのみ埋葬することで山訟が防げること、などが利点として宣伝された。しかし、特に子供が死んだ場合など共同墓地への埋葬を避ける朝鮮人は後を絶たなかった。また墓籍の提出は課税のためであるという噂が流れ、届け出ない者も多かった。このような反応にたいし、総督府は「迷信」「誤解」「通弊」などとよんだ。

 結局二度にわたって法改正がなされ、一部既存の私設墓地が認められたが、もともと私設墓地を持たなかった庶民層は共同墓地に埋葬しなければならなかったためか、共同墓地以外の土地への埋葬は後を絶たなかった。しかしソウルでのみ、1920年代以降かなり火葬が普及する現象が見られる。これは、困窮した住民が経済的な火葬を選んだためと考えられる。

 一方、植民地時代にソウルに在住していた日本人の間では、「内地」よりも早い時期から火葬が行われていた。しかし遺骨は朝鮮で埋葬するのではなく持ち帰るものが多かった。和田一郎は、日本人が植民地に定着するよう墓地や火葬場を豪華につくることを提唱し、実際1929年には弘済洞にあらたな火葬場と納骨堂・墓地が完成した。しかし、朝鮮に墓をつくるつもりのあった日本人であっても、実行することをためらっていたと思われる。また、併合当初は朝鮮人と日本人の共用墓地が存在したが、ソウルの市街地拡大に伴って共同墓地全体が郊外に移転される状態が続き、その際朝鮮人と日本人はそれぞれことなる墓地に移葬された。また上記の弘済洞墓地は、そもそも日本人専用であった。墓地においては、両民族の間はつよく隔離されていた。

 以上のように、植民地期における墓地問題は、土地制度・開発政策・朝鮮人と日本人の関係などにかかわる多面的な問題であった。発表当日には、火葬の経済性をささえたのは総督府の墓地政策そのものであったことや、解放後の葬法との関連を考慮する必要性が指摘された。以上の指摘を考慮しながら、今後も墓地からみた朝鮮社会の姿を明らかにしていきたいと考えている。

 

【今後の研究会の予定】

3月12日、在日・佐野通夫、近現代史・李景a、4月9日、在日未定、近現代史・藤井賢二

※研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。

【月報の巻頭エッセーの予定】

2006年3月号以降は、太田修、金隆明、福井譲、藤井幸之助、松田利彦、水野直樹、山地久美子、横山篤夫、伊地知紀子、稲継靖之、宇野田尚哉、金誠、金隆明、佐藤典子、佐野通夫、田部美智雄、張允植、・・・。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

●案内●

朝鮮史セミナー http://ksyc.jp/chosenshi.html

 ドキュメンタリーフィルム「あんにょん・サヨナラ」上映と講演の集い

 2006.2.25(土)午後200〜/ 会場:()?神戸学生青年センターホール

 参加費1000円(学生500円)

 @上映 午後2時  A上映 午後4

 講演  午後6時「アジア太平洋戦争と日本軍の元朝鮮人軍人軍属」 

 講師:古川雅基さん(在韓軍人軍属裁判を支援する会事務局長)

 B上映 午後7

 主催:神戸学生青年センター&対話で平和を!日朝関係を考える神戸ネットワーク

【編集後記】

           今回も少々?発行が遅くなりましたが、2月号をお届けします。風邪がはやっています。みなさま、健康に留意してご活動ください。 飛田雄一 hida@ksyc.jp

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