青丘文庫月報・139号・99年6月1日

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青丘文庫研究会のご案内

第217回 在日朝鮮人運動史研究会会

9月 12日(日)午後1時

報告者 布引 敏雄

テーマ「 昭和館と山口県協和事業

―『内鮮融和』から『協和』へ―」

第181回 朝鮮民族運動史研究会

1999年9月 12日(日)午後3時〜

報告者 堀内 稔

フィールドワーク「大倉山公園・朝鮮飴売りの荒田町・神戸電鉄モニュメント」&焼肉屋さん

※会場はいずれも青丘文庫(神戸市立

中央図書館内、地図参照)

 

巻頭エッセイ
「鉄馬は走りたい」 福井 譲

韓国を訪れた際,鉄道のお世話になった方も多いだろう。その韓国の鉄道は今月,開業100周年を迎える。それに向けて韓国鉄道庁は,さまざまな記念行事を準備している。

朝鮮半島に始めて鉄道が走ったのは1899年9月18日,京仁鉄道によって建設された済物浦〜鷺梁津間である。済物浦は現在の仁川駅よりソウル方4.5kmの地点にあり,その近くには献忠塔などで知られた守奉公園がある。一方,鷺梁津は漢江を挟んでソウル市街と隣接しており,近年では高層ビルを連立させる副都心の様相を呈してきた。

朝鮮半島での鉄道建設に中心的役割を果たしたのは,他でもない日本である。大陸進出への布石として,朝鮮での鉄道は重要な意味を持っていた。日清戦争以降本格的に鉄道建設へと乗り出してく中,レール幅を「内地」の在来線と同じ狭軌(1067mm)ではなく,後に一時期,朝鮮鉄道を管理下に置く南満州鉄道と同じ標準軌(1435mm)とされた点は注意すべき点である。

前出の京仁鉄道は1903年10月,漢城〜釜山間の建設を目的としていた京釜鉄道に買収され,漢城と新義州を結ぶ京義鉄道も翌04年3月には着工に取り掛かっていた。これらの会社は設立の経緯に違いこそあれ,最終的には日本人によって運営されていたものである。京釜鉄道(1906年7月に統監府鉄道管理局管理下に置かれる)の漢江橋梁はそのしばらく前,1900年7月に完成していたから,併合時には後の大動脈となる漢城(京城)と仁川,釜山,新義州それぞれ結ぶルートが,既に日本側によって準備されていたことになる。

現在のソウル駅正面,赤レンガ造りの駅舎内には「鉄道博物館」という施設がある。若干奥まったところにあるためか,ここを日本人旅行客が訪れることはほとんどないらしい。そこには韓国国鉄の歴史に加え,戦後活躍した車両,現在建設の進められているTGVなどが写真・パネルと折り合わせて紹介されている。そうした展示物を見ていると,今日の韓国の鉄道の中にいかに日本と類似しているものが多いのか,改めて気付かされる。

博物館2階の一角に,「車両政策会社標識」というものが展示されている。鉄道車両が製造された際,車両の隅などに取り付けられるメーカーを示すプレートである。そこに突然,「日本車輌株式曾社 昭和14年度」の文字が現れてきた。20cmほどの小さな物だが,日本統治期を伝える証しであることには違いない。こうしたものが現存今していることを知っている人は,一体どれほどいるのだろうか。

解放後,南北分断によって,鉄道もまた38度線を境に寸断されてしまった。あたかも,植民地統治のために南北へと作られた鉄道は,植民地の終焉と共にその役目を絶たれてしまったかのようである。ソウルから北へ延びる京義線,京元線の軍事境界線近くには「鉄道中断点」の大きな看板が建てられている。そこには大きくこう書かれている −「鉄馬は走りたい」。

「鉄馬」の説明は今更必要あるまい。それが「反共」シンボルか否かはこの際別として,その後ろにはレールの剥がされた路盤だけが,ただ北へ向かって延びている。分断された時間の方が長くなるまで,それほど時を残してはいない。「鉄馬」がその運命の呪縛から解き放たれ,本来の自由と得るのは,一体いつのことになるのだろうか。もの言わぬ看板は,今なお私たちへ強烈にメッセージを発している。

 

第180回 朝鮮民族運動史研究会(6月9日)

朴正煕政権下における文化の生産と仮面劇研究

―70年代学生街の仮面劇運動を中心にー 高正子

近代以降、朝鮮半島において自覚的に語られる文化は、植民地という屈折した鏡を通して映しだされた像であった。このような民族文化が、支配者と対等な権利を獲得するための運動と深く関わるようになるのは、なにも朝鮮に限ったことではない。この意味においてきわめて政治的な文化は、解放後の朝鮮半島においても南北を問わず、「国民国家」のアイデンティティの源泉として求められた。そこに投影される「国民国家」の像は、植民地経験国共通の課題でもある「二度と植民地化されない国家」であり、人々の心の奥底に潜んでいる切なる思いでもあった。

南の地、韓国においての国家建設は、その地に息づく人々を「国民」として統合することを必要不可欠にした。解放直後、しばしば用いられた言説は「団結だけが生きる道だ」というものであり、李承晩はしきりに日本人の団結力を讃えた。これは、李承晩政権の崩壊後、軍事ク−デタによって登場した朴正煕にも引き継がれる。

本発表は今日的な視点にたって、解放後の韓国社会のなかで民俗文化が、いかに「国民文化」として生産されていったのかを、仮面劇という事例を通して見ていこうとするものである。とくに、解放後の韓国社会のなかで「国民文化」生産の基礎を創り上げた朴正煕政権下における文化の生産の特徴を明らかにするものである。

韓国において「文化の生産」は、1962年に制定された文化財保護法をはじめとする官主導で押し進められる文化政策に現れる。朴正煕政権はこの時期、悠久な歴史を受け継ぐ「民族」を強調し、1930年代失われゆく民族文化として位置づけられた仮面劇をはじめとするシャーマンなどを保護する。学校教育の場では漢字教育を閉め出し、儒教道徳の教育を復活させるが、そこに強調される儒教文化とは、朝鮮儒教の特徴である「孝」ではなく「忠孝」の奨励であった。60年代しきりに押し進められる博物館の建設や記念碑の建立、儒教道徳の強調は「韓国的なもの」の創出だった。また、「ウリコッ」(我々のもの)の代表とされる民俗文化は、「伝統文化」として祭り上げられるが、反面、それは国家の近代化・産業化のなかで取捨選択される。例えば、巫俗の神堂は、このような発展の阻害要因として国家によって指弾され、取り壊された。

一方この時期、朴正煕政権は韓日条約などによって日本からの借款を受入れ、政府主導の開発経済を推進する。その開発経済を支えるために多くの犠牲を民衆に強いた。その犠牲を支える言説を生み出す営みこそが、まさに朴正煕政権下における文化政策だった。

他方、余りにも強い力による抑圧は、現在のネガティブな自画像の裏返しとして「過去」へのまなざし、すなわち、歴史や文化に対する新たな解釈の対象に向かわせる。

70年代大学街でおこった仮面劇に対するまなざしや営みは、まさにこのような自画像の裏返しであった。その頃、しきりに語られていたのは仮面劇の現代的意味であり、それは仮面劇のなかに含まれた痛烈な諷刺精神を民衆の知恵とし、それが力であり、韓国人的なものと解釈された。そして、植民地時代に刷り込まれた美意識についても「静的なものやもの悲しさまたは、哀傷的なものとして処理されてきた」ものを「動的で諧謔的な『力』と『夢』の芸術もある」として、前者のみを強調するのは、「韓国人に停滞的で敗北的な心性だけを強調することになる」とした(葵煕莞1977「仮面劇の民衆的美意識研究のための予備的考察」ソウル大修士論文)。このような語りは、公権力に抗う文化としての自文化像を生産するが、同時に「韓国人」という「国民」創出の一翼を期せずして担うことになる。そして、この営みは、その後の韓国社会を変革させる原動力へと導かれる。

この一見対立しているかのように見える両者は、互いに反発しながら、微妙に補完関係にあった。それは、朴正煕が望み描いた「国民」ではなかったにしても、「抵抗の文化」を支えた根底には「韓国人的なもの」というナショナリズムが潜んでいた。二度と植民化されない「国家」を待望する深層心理は、なにも一人朴正煕だけに限ったことではなく、その対局にいたと思われている人たちをも支えていたものだった。

仮面劇研究の中で、そこに表象される女性や障害者などに対する言及がほとんど行われないことは、最も疎外されている民衆をより周辺へ追いやることにならないのか。時代の制約のなかで強調されるナショナリズムは、もっとも抑圧されたものを置き去りにしたまま論じられているように思えてならない。

 

第215回 在日朝鮮人運動史研究会(5月9日)

戦前の尼崎を中心とした左・融朝鮮人団体の葛藤 堀内 稔

左派に属する尼崎の朝鮮人団体は、1927年に設立された朝陽同志会に始まり、これが神戸の有隣倶楽部などと合同して兵庫県朝鮮労働組合尼崎支部となり、朝鮮労働組合の全協への解消後は一部全協へ移行したが、大半は阪神消費組合に再組織されるという流れを持つ。一方融和団体は、1925年に設立された内鮮同愛社で、1928年に分裂などがあり、また名称も内鮮同愛会となるが、これが中心的な存在であった。さらに内鮮同愛会の傍系団体として、民衆倶楽部や内鮮国防青年団などがあった。

 これまで研究会では、これらの左派団体、融和団体の活動を別個に報告してきた。しかし、同一地域に主義主張の異なる団体が存在することは、しかもこれら団体が同程度の動員力を持つとすれば、互いの運動に影響し合うはずである。そこで、両団体の運動で対比できる部分を対比させることによって、相互の運動への影響を考察するとともに、尼崎を中心とした阪神地域の朝鮮人運動の全体像を浮かび上がらせようとした。資料は主に新聞記事、とくに『神戸新聞』、『大阪毎日』、『大阪朝日』の阪神版に依拠した。

 まず教育であるが、両団体とも夜学に関しては熱心である。内鮮同愛社は設立後すぐに夜学を開設したし、朝陽同志会も尼崎市に朝鮮人の夜学開設を陳情した。尼崎市はこれを受けて夜学を開設したが、受講者が一人もないため各団体の指導者を呼んで善処を要請した。これに積極的に応えたのが内鮮同愛会で、入学勧誘の結果、夜学は開設できた。一方阪神消費組合は、市当局のイニシアチブによる夜学を嫌ったのか、独自の夜学を開設している。

 住宅問題では、朝陽同志会が西宮の獅子ヶ口居住朝鮮人の立ち退き問題に関与したが、内鮮同愛会もこの問題を念頭に置き、朝鮮人長屋の建築などを実現した。

 政治活動では、1930年の選挙で内鮮同愛会が中馬氏支援を行ったのをはじめ、32年の尼崎市議選挙では朴炳仁が立候補して当選した。一方阪神消費組合でもこれに対抗したのか、リーダーの一人が同時に行われた小田村村議会選挙に立候補を表明したが、後に立候補を取り消した。

 労働争議については、朝陽同志会、兵庫県朝鮮労働組合がともに主たる活動として支援したのは当然であるが、内鮮同愛会も菱上硝子、日本ビール鉱泉尼崎工場、摂津製壜、林屑物消毒所などの争議で朴炳仁らが折衝した。

 消費組合運動では、阪神消費組合に対抗して内鮮同愛会も共進消費組合を設立して対抗した。33年には組合員の争奪に両者が猛烈に抗争していると報道されているが、阪神間にしっかりした基盤を築いた阪神消費組合に対し、共進消費組合の活動はそれほど活発ではなかったようだ。

 両団体の直接的な摩擦は、1930年の内鮮同愛会の記念式を全協系が妨害をしたのをはじめ、両団体の構成員が道で遭遇して喧嘩になったり睨み合いになったりした事件がいくつか報道されている。

 左派の阪神消費組合は1941年までその存在が確認できる。一方内鮮同愛会は、1939年5月に尼崎協和会が発足したことにより、それに解消される。内鮮同愛会をはじめとする融和団体、あるいは相互扶助団体が協和会へ移行していく過程については、今後の研究課題である。

 

【研究会の予定】

10月3日(日、12日が休館のため)民族(金森襄作) 在日(福井 譲)

11月14日(日)民族(クリスティーニ)在日(飛田雄一)

【月報巻頭のエッセー】

10月号(金慶海)11月号(高正子)12月号(クリスティーニ)

2000年1月号(伊地知紀子) ※前月の20日に原稿をよろしく。

 

青丘文庫学生センター