青丘文庫月報98年12月1日/134号

<エッセー> 自治体史と在日朝鮮人史研究 高木 伸夫

 一八八九年(明治二二)に市町村制が施行されてから百年余。兵庫県域の村は合併に次ぐ合併で現在の市町村になったが、阪神間では現在の市域になったのが遅く、市制三〇〜四〇周年に大部の自治体史が発刊されている。芦屋・西宮・尼崎・伊丹・川西・宝塚市などがそれである。在日朝鮮人について記述があるのは、尼崎市が最も積極的で、他は押し並べて消極的である。一通り市町村史が刊行された現在、阪神間では二回目の市史編纂事業が着手、あるいは準備・検討が進められている。明石・神戸・西宮・尼崎・豊中・池田市などで、検討中は三田・伊丹市という。

 こうした新しい市史に、在日朝鮮人の運動・生活がどこまで反映されるのかと注目しているが、西宮では私も参加している西宮・甲陽園の地下壕を記録し保存する会は「太平洋戦争末期、西宮市甲陽園に地下工場、軍用地下施設建設のために動員された朝鮮人などで建設された地下壕を永久保存し、歴史の証言者として残すとともに『西宮市史』に正しく記録させることを目的」(会則第3条)に置き、近く『市史』現代編編集委員らとの会合を持つ。新『西宮市史』の編集委員・編集専門委員は学識経験者で構成されているが、必ずしも地元を対象とした研究成果を出している訳ではないなど、土地勘不足、そこからどこにどんな史料があるのかが分からないという情報不足もあると考えられる。

 自治体史とは住民・読者にとって、どうあるべきか、誰のために作るのかを考える一つの契機となるように新しい自治体史の編纂事業に注目したい。

 

第174回朝鮮民族運動史研究会(11月11日)
在朝鮮日本財産の没収と創氏改名 金英達

 1945年8月の日本の朝鮮植民地統治の崩壊(朝鮮解放)の後、ソ連軍占領下の北部朝鮮地域においてもアメリカ軍占領下の南部朝鮮地域においても、日本および日本人の財産権が国(北部朝鮮では、北朝鮮臨時人民委員会・北朝鮮人民委員会の過渡的政府および朝鮮民主主義人民共和国政府に。南部朝鮮では、アメリカ軍政庁および大韓民国政府に)に没収された。

 いわゆる在朝鮮日本財産の没収である。その過程で、財産権の登録名義が創氏改名による日本的氏名のまま残っていたものについて、日本人の私有財産であるとして没収されてしまうという混乱が若干あったようである。

 この報告では、解放後の南北朝鮮における在朝鮮日本財産の没収の経緯を法令・条約をたどって整理するとともに、不動産の登記名義が創氏改名による日本的氏名のままであったため日本人と間違われて土地が没収されてしまったと訴えている一つの具体的事例を取り上げてみた。

 まず北朝鮮での、@北朝鮮臨時人民委員会「北朝鮮土地改革に関する法令」(1946.3.5)、A北朝鮮人民委員会「産業、交通、運輸、銀行等の国有化に関する法令」(1946.8.10)、B「朝鮮民主主義人民共和国憲法」(1948.9.8)の関連条項を摘記した後、南朝鮮での、(1)在朝鮮米軍政庁法令第2号「法令の名称なし(財産移転等に関する措置)」(1945.9.25)、(2)在朝鮮米軍政庁法令第33号「朝鮮内所在日本人財産権取得に関する件」(1945.12.6)、(3)「米韓財政および財産に関する協定」第5条(1948.9.11)、(4)「日本国と連合国との平和条約」第4条(1952.4.28発効)、(5)日韓会談での議論および「日韓請求権・経済協力協定」(1965.12.18発効)の関連条項により、在韓日本財産の処理の経緯をたどってみた。

 次いで、解放後の創氏改名の法的処理につき、北朝鮮での北朝鮮5道行政局司法局布告第2号「北朝鮮に施行する法令に関する件」(1945.11.16)に基づく北司例第3号「戸籍及び寄留事務に関する件」と南朝鮮での米軍政庁法令第122号「朝鮮姓名復旧令」(1946.10.23)を紹介した。

 そして、私自身が相談を受けた事例として、韓国在住のA氏の兄の土地没収の件(日帝時代に「松本繁蔵」と創氏改名したが、「松本繁蔵」名義の土地が日本人と間違われて没収されてしまったというもの)につき、朝鮮戦争で焼失した後に再製された戸籍簿、土地台帳、不動産登記簿の謄本をみながら、その事実関係を検討してみた。

とくに何がどうだという結論が出るような報告ではなかったが、創氏改名の歴史的後遺症の一つとして、こんな問題もあるという紹介をしたものである。

 

第209回在日朝鮮人運動史研究会(10月11日)

 資料:『夏目漱石は朝鮮をどう見たんだろう?』

                             金慶海

私は、漱石が1909年に、滅びる直前の韓国を訪問したことは知らなんだ。この時期の「大阪朝日新聞」(以下、「朝日」)に彼のことが度々報道され、のちには旧満州(以下、満州)と韓国の旅行記が紙上に発表されたが、大文豪の動きなので大きな関心をもって読んだ。

で、漱石が次の三点についてどう見たのか、に興味がわき調べてみた。

・漱石は、滅亡直前の韓国をどうみたのか?

・漱石が帰国した直後の10月26日、伊藤博文がハルピンで射殺されたが、そのことをど う見たのか?

・もうひとつ、韓国が日本の植民地にされたことをどう見たのか?

彼の旅程は次のようだ。

1909.9月の中ごろ神戸港を出港、先ず大連に上陸して満州の各地を見て廻り、韓国には、9月28日から10月13日までの間の約二週間滞在。以下は、これらの疑問を解く参考資料として提出する。

先ず、一般的な意味での朝鮮観

Α。「朝日」の報道記事の文書から。/漱石は、帰国直後に「朝日」の記者の質問に満州と韓国についての感想を、次のように述べている。

−今回の旅行で『関心したのは日本人は進取の気象に富んでいて貧乏世帯ながら分相応に何処までも発展して行くと云う事実とこれに伴う経営者の気概』である。つずけて、『平壤に行くとこの思い(日本に帰った様な気持ち=金)一層強くなります。京城に行くと朝から隣で謡の先生が謡を教えたり向うで三味線の稽古をして居る様な始末で一寸内地と違ひませぬ。釜山に行くとそれが極端になりそうです。一言で言うと朝鮮に於ける日本の開化は歳月の力で進んで南方から北へせり上げて行ったもので…。私は…この二つ(満韓のこと=金)が歳月と富力に束縛されてこう著しく分配して発展するのを面白く感ずるのであります』(「朝日」10.18.記事)

次に、『満韓ところどころ』での朝鮮についての記述。漱石は、帰国後、同年の10.23日から12.29日までの間に51回の連載旅行記を「朝日」に連載した。満州でのでは、中国人の汚さや満州の風景などが、特に多い。中国人の汚さと朝鮮人の汚さがよく引合にだされている。51回の連載の中で、ひとつの回でも朝鮮についての記録があるだろうと思ったが、ひとつもなし。ただし、第46回(12.24日)で朝鮮人のことが、ひとつの文章で成っていた。以下、その全文を引用する。

 − 『海城(開城のまちがい=金)という処で高麗の古跡を見に行った時なぞは、尻が蒲団の上に落ち付く暇がない程揺れた。一尺ばかり跳ね上げられる事は、一丁の間に一度は必ずあった。仕舞に朝鮮人の頭をこきんと張り付けて遣りたくなった位残酷に取り扱われた。…その引き方の如何にも無技巧で、ただ見境なく走けさへすれば車夫の能事おわると心得ている点に至っては、全く朝鮮流である。余は車に揺られながら、乗客の神経に相応の注意を払はない車夫は、如何に能く走けたって、遂に成功しない車夫だと考えた』  −

以上のインタビュ−と46回目の朝鮮車夫についての旅行記が、公表されている朝鮮人観。

Β。漱石の日記から(漱石全集第二十巻 岩波書店 刊)

・ 朝鮮に入っての詩  〜  一度朝鮮に入れば人悉く白し

               水青くして平なり。赤土と青松の小さきを見る。

               なつかしき土の臭いや松の秋。

・京城にある秘苑をみて  〜  …山あり、谷あり、松あり。細き流れあり。生れて                より以来未だ斯の如き庭園を見たる事なし。

・京城の宿やでの雑談での中で  〜  『矢野曰く、従来此所で成功したものは贋造           白銅(偽造した朝鮮の硬貨、これが大量に朝鮮に出回り一大金融恐慌が発生=金)、泥棒、○○なり。その例をあぐ。(高利貸しに苦しむはなしなど。)余韓人は気の毒なりといふ。』

この日記では、‘従来此所’と書かれ、三番目の成功者が○○と伏せ文字なっているが、《漱石研究年表 集英社 発行》によると、こうだ。

‘従来此所’は‘植民地’、と矢野が発言し、同席者らも賛成する。また、○○の伏せ文字は、‘巡査’(推定)だと記している。なぜ、漱石が○○と伏せたのか、解らない。

二つ目。伊藤博文の射殺について、漱石はどう見たのか。当時の新聞・雑誌などは、こぞって伊藤の射殺を悲しみ、彼の明治の元勲としての“業績”を讃える特集が大々的に取り上げられた。いわゆる文人らしき者たちも挙って、伊藤のことを書き立てている。その射殺は、『満韓ところどころ』が発表されはじめた直後のことだったが、だのに『満韓…』ではひとつもふれていない、日記にもない。不思議に思い、資料をあさる。と、友人でロンドンに滞在している物理学者:寺田寅彦に当てた手紙(明治42年=1909.11.28日付け)に、伊藤の射殺について書いていた。

− 日本に『帰るとすぐに伊藤が死ぬ。伊藤は僕と同じ船で大連へ行って、僕と同じ所をあるいてハルピンで殺された。僕が降りて踏んだプラトホ−ムだから意外の偶然である。僕も狙撃でもせ〔ら〕れれば胃病でうんうんいふよりも花が咲いたかも知れない』 − 

三つ目。韓国併合(1910.8月)について、日記にひとつだけあった。それは、1910.(明治43.)10.20日のところに、ふたつの項目のメモがあるが、そのひとつにには、次のように書いている。

 『十一時半頃突然花火の音をきく。寺内統監(総督のまちがい=金)の帰京の由也』

韓国併合についての漱石の記録はこれだけのようだ。仮にのことだが、漱石が日本による韓国の植民地化を支持する人ならば、もっと踏込んだ記録があっても当たり前と思えるが、それを見い出せない。以上は、漱石の対朝鮮観を研究用の資料として、改まってメモしただけ。

 

青丘文庫研究会のご案内

第175回朝鮮民族運動史研究会

12月13日(日)午後1時

報告者 藤永 壮

テーマ 「植民地期・済州島における『文化運動』とその人員構成」

 

第210回在日朝鮮人運動史研究会

12月13日(日)午後3時

報告者 横山 篤夫

テーマ 「『日本人が見た戦時下の朝鮮人強制連行視察記』をめぐって」

 

※会場はいずれも青丘文庫(神戸市立

中央図書館内、地図参照)

 

研究会終了後、神戸駅北の「平衛六(へいろく)」TEL078-361-2626で忘年会をします。

 

編集後記

★  今年もそろそろ終わりですね。今年はどんな年だったでしょうか。最近の神戸学生青年センターの話題は、タヌキです。まず11月初めに私が裏玄関で朝、遭遇。ほんとにマンガのとおりの顔でした。猪は少しも珍しくない六甲ですが、タヌキは珍しい!! その後、朝鮮史セミナーの最中にホールの外を歩きました。これは職員が目撃。センター管理人の子供達はタヌキに会いたくて、見張っていますがまだ現れていません。タヌキ見物にセンターにどうぞ!! また、来年もよろしくお願いします。飛田 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp

 

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