青丘文庫月報/127号(1998年3月3日)

 

追悼・朴慶植先生

 

先号の月報で韓皙曦さんの追悼文を掲載したところなのに、本号でまた朴慶植さんの追悼文を書かねばならないのは本当に残念なことです。

在日朝鮮人運動史研究会の産みの親である朴慶植さんが、2月12日、自転車で自宅に帰る途中に交通事故で亡くなられました。朴慶植さんは、よく知られているように名著『朝鮮人強制連行の記録』をはじめ朝鮮史、在日朝鮮人史に関する多くの本を書かれた在日朝鮮人一世の歴史家です。

在日朝鮮人の歴史を掘り起こすことに特に力を注がれ、在日朝鮮人の受難の歴史だけではなくて運動の歴史を記録することの重要性を常に指摘されていました。その活動の一環として在日朝鮮人運動史研究会を創設され、関西の私たちもそれに触発されて同研究会の関西部会を結成いたしました。1979年2月のことです。朴慶植さんは、関西部会の結成後約2年の間は、毎月欠かすことなく神戸の当時JR鷹取駅の近くにあった青丘文庫に通って下さいました。在日朝鮮人史研究の「生字引」ともいえる朴さんを迎えての研究会は、本当に楽しいものでした。資・史料のありか、探索の方法、聞き書きの基本等、実戦的なことがらも含めて実りの多い研究会を開くことができました。

関東部会と関西部会は、合同の合宿を2回開きましたが、宇奈月温泉での合宿など忘れえない思い出となってしまいました。

1990年から始まった「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」にも毎年参加され、夜遅くまでみなと酒をくみかわしながら話したものです。昨年7月の松江集会では、全体集会のシンポジウムで、強制連行調査活動の成果と課題について熱っぽく語られていたのが、昨日のことのように思い出されます。

近年は「在日同胞歴史資料館」を作る運動を積極的に推し進められ、昨秋には関西でもその応援団として「在日同胞歴史資料館をつくる関西の会」を作ったところでした。その完成を見ずに亡くなられたことは本当に心残りであられたと思います。

私たちは、朴慶植さんの遺志を受けついで在日朝鮮人史研究の一翼を関西の地で担っていこうと決意しています。

1998年3月1日

朝鮮民族運動史研究会・代表 水野直樹

在日朝鮮人運動史研究会関西部会・代表 飛田雄一

 

エッセー

文民政権の名誉挽回なるか 姜在彦

 

巨視的にみたら、解放後の韓国政治は経済および民主化の面で、政権交代毎に一歩一歩前進してきた。大統領中心制の韓国では、大統領の個性が政治に与える影響は大きい。

一時的に大統領の座にいた人を除いて、韓国政治史に大きな影響を与えた大統領名を列記してみると、李承晩、朴正煕、全斗煥、盧泰愚、金泳三ということになろう。その中で李承晩と金泳三は文民政権である。

各大統領の否定面はいちおう差しおいて、韓国政治への肯定的役割を考えてみると、李承晩のばあいは、何が肯定的だったか、思いつかない。朴正煕のばあいは「漢江の奇跡」をつくり、朝鮮人が史上はじめて、自分で食えるようにした。

全斗煥はソウル・オリンピックの招致を決定し、何よりも政権交代の民主的ルールをつくった。つぎの盧泰愚は北方政策を打ち出して反共アレルギーを解消し、88年のソウル・オリンピックを何とか成功させて「世界の韓国」にした。

92年2月、民主化の闘士金泳三は、大きな期待を担って文民大統領になった。そして「歴史の立て直し」とかいって、元・前大統領を牢屋にぶち込んだ。

軍事政権こそ「諸悪の根源」と糾弾してきたかれは、歴代の軍事政権が粒々辛苦積みあげてきた経済を食いつぶし、気の遠くなるような外貨(1500億ドル)を残して、経済主権をIMFの統制に任せなければならなくなった。

この人は任期中の5年間に、財政経済院長官(副総理)を7回も更えたそうだから、「独裁」ではなく「独走」をしたようだ。大統領だけが突出していて、総理が誰であり、長官(大臣)が誰であるか、その顔が見えない。

もう一人の民主化の闘士金大中政権の最大の課題は、IMFの手から経済主権を回復することであろう。そのためには経済の自主管理にたいするお手並みを見せなければならない。「過消費」に浮かれた先進国幻想を引き締めると、当然反発を伴う。果して文民政権の名誉挽回なるか。

 

第201回在日朝鮮人運動史研究会関西部会例会(98年1月25日)

戦間期北九州地方における朝鮮人移民社会の成立 坂本 悠一

 

 第二次大戦後の在日朝鮮人の原型は植民地時代に対日労働移民=「帝国内」労働力移動の結果、宗主国である日本「内地」に居住するようになった朝鮮人であり、彼らは第一次大戦末期から第二次大戦初期(日中戦争期)にかけて、流入と帰還を繰り返しながら約100万人の規模に達し、朝鮮人移民社会を形成して日本社会に定着するに至った。九州地方に在住する朝鮮人は、その地理的位置から初期には全国的なウェイトが高く(1920年に全国の32%)、とくに福岡県をはじめとする北部九州に渡航者が流入していた(同年福岡県が全国府県中1位)。その後、近畿地方への集中によって比率は低下するが、関東・中部地方とほぼ並ぶ位置を占め続けた。とくに北九州工業地帯と筑豊炭田をかかえる福岡県には全九州の人口の60〜70%が集中し、隣接する山口県を含めると、京阪神・京浜・名古屋地区に次ぐ集住地域を形成していた。

 警察統計による福岡県在住朝鮮人は1923年に1万人を超え、その後労務動員開始前の38年に6万人に増加しているが、34年には定住者(90日以上同一市町村に在住)が70%に達し、男女比も2:1の水準に到達して、この頃までには定住化と家族形成がかなり進行していた。地域的には、北九州工業地帯と筑豊炭田への集中が顕著である。その職業をみると、賃金労働者が圧倒的で、鉱業では炭坑夫(坑内が70%台)、工業では職工よりも雑役が多く、ほかに土工・仲仕といった肉体労働が多数を占める。自営業では商業(大部分行商)が多く、農業のほとんど全部が小作農である。筑豊炭田では(1928年調査)、全炭坑の約半数24坑に合計約6500人(うち坑内が86%)の労働者が働いており全労働者の6.6%に相当するが、三菱・中島・麻生各社の炭坑に集中していた(3社で約85%)。北九州工業地帯の5市(門司・小倉・八幡・若松・戸畑)と下関市の在住者では、定住者の比率が全県平均よりもやや高く、他地域に比べて就労の機会が多かったものと推定される。各市の職業分布の特色をみると(27〜29年)、土工・人夫・日雇という雑業層の存在は共通しているが、港湾都市である門司・若松・下関では仲仕が多い。また八幡市では製鉄所の労働者が多く、このうち雑役の職夫が428人を占めるが、職工も224人が雇用されていた。彼らは当時の在住者のなかでは、最も安定した階層であり、八幡市の朝鮮人有権者を全国平均の約2倍にあたる21%に高めていた主な要因であったと考えられる。

 福岡県では、朝鮮人労働者の本格的な就労が始まった1918年頃から24年頃にかけて、炭坑や大工場で朝鮮人の参加する争議が相当数発生しているが、これら初期の争議は、組織的な運動というよりも言語・習慣の違う内地への定着過程で生じた民族的な摩擦と解釈することができる。25年以降は32年の麻生炭坑争議まで発生が確認されていないが、その背景にはちょうど25年頃から叢生してくる朝鮮人団体の存在があったと思われる。福岡県の朝鮮人団体は左翼系団体が皆無であり、大部分の団体はいわゆる「融和・親睦」系の団体で、その機能は、相互扶助と紛争の予防にあったと考えられる。宗教団体を含めたその総数はのべ50団体以上に及んでいるが、その内容が判明する約30団体のうちの過半数は29〜31年の間に設立され、八幡市の8をはじめ合計20団体は北九州5市で設立されていた。これらの団体の指導者は、土木請負・下宿業・炭坑飯場などなんかの労務供給をともなう自営業者が多く、彼らは30年代に入ると地方議員にも立候補していった。これは、この時期までに北九州・筑豊の鉱工業地帯に在住する朝鮮人の間に雇用関係を内包した階層分化が形成され、自営業主層をリーダーとする朝鮮人集住地区の社会秩序が形成されていたことを示している。福岡県における地方議員は、33年以降42年までに北九州5市でのべ11名(実数7)、筑豊の4村でのべ6名(同5)が選出されている。

 こうした朝鮮人有力者層の台頭は、準戦時体制下における在住朝鮮人の体制統合の過程と並行して進行した。この統合は、既存団体の市町村単位での合同と、官製協議機関の設立(35年3月福岡県朝鮮人団体連合会)をもって一段階を画する。ついで36年10月には福岡県社会事業協会協和部が開設され、38年11月以降全県下の朝鮮人団体を各警察署単位の矯風会に再編成した。この結果自主的な団体は存続が困難になり、事実上解散に追い込まれていった。39年9月、福岡県協和会の設立にともなって各矯風会は一斉にその支会に改編され、単一の朝鮮人戦時統制組織への統合が完成した。こうして戦時期には、朝鮮人移民社会が有していた「国家からの相対的自立性」(西成田豊)は公式には否定されることになった。これは植民地体制下の「帝国内」労働力移動という当時の在住朝鮮人の存在の限界によるものであるが、その「共同社会」(同)的性格は戦時期にも水面下で生き続け、労務被動員者の大量高率の逃亡を支える大きな要因となったと考えられる。

 

  韓晢曦先生 追悼の辞 

韓国基督教歴史研究所 所長 李萬烈

 

(※社団法人韓国基督教歴史研究所(ソウル)は去る1月23日、「故韓晢曦先生追悼礼拝」が行なわれました。参加者は、李萬烈 尹慶老 李徳周 徐正敏 金承台 金亨錫 韓圭茂の各氏です。当日の李萬烈、徐正敏両氏の追悼文を掲載します。翻訳、信長正義。)

 

 我々は今、敬愛する韓晢曦先生が亡くなられた悲しみに耐えて、先生を追悼する思いでここに集まりました。

 先生が逝かれた日は、先生が生涯で示された韓日関係を象徴するように、橋本首相が率いる日本政府が韓日間に結んだ漁業協定を破棄した日でありました。訃報を受けた我々は、日本政府のこの仕打ちに憤怒する間もなく、先生の亡くなられたことがまさに韓日関係のまた一つの象徴を意味するのではないかという憂慮を禁じ得ません。3・1運動が、日帝の植民地支配でねじれた韓日関係に新しい関係を要求していた1919年8月22日、朝鮮の地に先生が生を受けられたように、先生が日本の地で逝かれた1998年1月23日は韓日関係の新しい段階を予告しています。

このように出生と永眠で韓国と日本の間の関係を示唆してくださったように、先生の80年の生涯は韓日間の関係の中で展開され、その関係を新しい次元に昇華させようとする熾烈な努力の生涯でありました。それはまさに民族的な情緒を越えた、キリスト教的な愛と和解の関係を追求したものだと言わなければならないでしょう。愛と和解は先生が実践された人生の基底をなす価値あるものとして、イエス・キリストを通して神から受けた恩寵であります。

韓国人でありながら日本の経済界とキリスト教界で示された先生の事業と活動は、民族的な情緒を越える或る価値観に立脚したものであります。先生がいつも謙遜しながら前面に立つことを自制された学問は、韓日間のキリスト教的な和解を念頭に置いてのことだったと誰もが理解できます。先生の内に秘められた日本観がどのようなものかは仔細には分かりませんが、先生が韓国人でありながら韓国で生きることに固執なさらなかった点や、韓氏の代わりに西原と呼ばれることを拒否なさらなかった点は、キリス教信仰でそのような問題を超越することができたためだと信じます。先生は日本人たちに西原と呼ばれてきたからと言って神の前で自身の存在が萎縮すると考えられなかったし、韓国人としての主体意識がなくなるとは意識されなかったのであります。それ程に先生がキリスト教信仰を通じてナショナリズムを越える包容力を恩寵として受けられたことは間違いないと思います。だから我々は先生を指して大道無門という、(この言葉が最近非難される或る政治家の商標となっていて使用することは具合が悪いのですが)、まさにこの大道無門という言葉で、先生の日本での数多い業績と活動を説明するとすれば妄言でしょうか。

先生は帝国主義者日本とその後裔を批判する言葉を控えておられましたが、先生が遺された学問ではキリスト信仰の中から日本の「聞く耳のある」友人たちに真情ある言葉を遺されたと理解します。先生が同族である韓国人よりは日本人の知友と同・後学者たちを多く持ち、彼らから一層深い尊敬と信頼を受けていたことを我々全てがよく知っています。先生が日本人からそれ程に信頼と衆望を受けられたのは、まさに民族と国境を超越する人格と包容力のためだと信じます。だからキリストに従いながら学問の道に入った我々は、先生が遺されたお手本を通して、人間には不可能であるが神の子としては可能な、民族意識を超越した愛と和解の一つの見本を見い出すことができました。先生の体躯に似合わないその広い包容力は、間違いなく先生が信仰を通して成熟させられた実ではないかという思いのためであります。こうした点で未熟な我々後学たちも信仰を通して神が与えられた能力の内で、先生に従っていくことの出来る慰めと可能性を見い出だすことができます。

先生の生涯は、繰り返しますが、キリストが神と人との間を遮る垣根を壊されたように、韓日間和解のための架橋の役割に忠実であり、両国民に向けた平和の使徒になろうとする努力を貫かれました。先生は韓国人が持つ日本に対する怨恨を胸の中に収め、信仰と学問に昇華させながら残りは墓のなかに持って行かれました。先生は80年間の大部分を韓国を占領したその場で過ごされことに、抑えがたい苦痛をおぼえながら受難に耐えなければならなかったことと理解します。それでも先生は歪曲された韓日関係による苦痛の歴史を回避せず、親しく体験しながら黙々と十字架を負って行かれました。先生は小さい体でありましたが先生の心は韓国と日本を同時に抱くことが出来ました。先生の母国語は訥々としていたけれども、祖国に向けた愛情と日本に対して思いやる表現はとても豊かでありました。

先生の生涯で最も熱中したものは実業の分野ですが、50歳を超えて始められた晩学徒の学問的な努力によって宏博、深奥な研究業績を残され、このような学問的業績にも拘らず先生は専門的な学者であることを自任しないでアマチュアとしての学問を楽しまれたようです。残された業績には韓・日語を通り越して英文書籍を翻訳する勤勉さも見せられましたが、先生の学問のその広さを推量ることの難しさはこのためであります。先生の韓国キリスト教史研究に対する学問的な情熱は神の招きを受ける時まで継続されましたが、その情熱を現実化するには難しい高齢になってからは自身の財力を費やして後学を激励し資料を蒐集しながら青丘文庫を建てて後学の支援に努められました。先生をして生涯を学人であることに等閑な点があったとどうして言えましょうか。

嗚呼、先生が逝かれたことに心底から湧き出る尊敬と悲しみを抑えることが出来ません。我々は良い師を失い模範的な信仰の先輩を失いました。何よりもキリスト信仰から韓国と日本を結んでくださった固い輪を失い、たとえ外国であっても南北和解を成し遂げるその調整の役割を果たされた一つの精神的支柱を失いました。先生が信仰と学問を通じて韓日関係を新しい次元に昇華させようと努力された多くの業績を見て、今先生の意志を継承しなければならない責任が我々に与えられたことを悟りました。先生は生前に一度もその点を言葉で強調されませんでしたが、今我々は先生が実践されたその生を教訓として、残された遺言を実践されずお亡くなりになりました。

今先生を追悼するこの席が先生のその無言の教訓を繰り返し味わい、実践を確約する美しい共同体として力を振り絞る契機となることを告白します。

繰り返し先生に我々の心をこめた尊敬と感謝を慎んで表します。合わせて先生のご遺族に神から下される大いなる慰めが豊かにあふれることを祈ります。先生の訃報が韓日両国のキリスト者が既存の友情関係を確認し、新しい紐帯を模索する契機となることを祈りながらこれで追悼の辞に代えます。

 

 

韓晢曦博士の霊前に捧げる 徐正敏(韓国基督教歴史研究所研究委員)

 

 20世紀末、歴史の息苦しい時代、或る冬の日先生はふっと去って逝かれました。なにとぞ安らかにお眠り下さい。神より永遠の安息を受けて下さい。

3・1万歳の年、主権を失った半島の南方にある済州島で博士は産まれました。7歳の年に暮しの道を求めて玄界灘を渡った両親の手を握って日本の地に着きました。そこから博士の人生、苦行と成就の厳しい旅程が始まりました。民族的差別と経済的窮乏の中でも昼耕夜読し、「ビジョン」を捨てることなく青年読書家として一時も手から本を離さずに、遂に戦前末期京都の同志社大学神学部に入り修学されました。しかし当時戦前戦後の一つの傾向として同志社を中心に吹き荒れたキリスト教左派運動に心酔し、一時は社会主義者の道を歩くこともありました。また解放後、北朝鮮に定住されようともしました。

しかし決して博士は思想の生い立ちから社会主義者の道に留まることは出来ませんでした。結局転向と共にキリスト教信仰に強く回帰し日本キリスト教団の中枢的指導者として、教団の委員として、神戸学生青年センターや神戸YMCAのようなキリスト教系の各機関の主要委員として、神学と教会史研究家としての生涯を再び始められました。

 しかし博士の一生はその与件上、学者として、キリスト教指導者としての道だけを歩むことは出来ませんでした。在日韓国人という寂寞とした状況の中で生計のために事業をしなければならず、そして遂に「ケミカルシューズ」即ち人造皮革製靴業に進出して事業的にも大きな成功を成し遂げられました。最近の阪神大震災で事業場が焼けるなど大きな損害を受けることもありましたが、博士は事業でもたらした多くの財貨をキリスト教歴史学者としての資料蒐集をはじめとして、学術文化活動に相当数投資されました。

 このような博士の生涯を総体的に集約する結晶体が最近まで博士の主立った活動主体だった「青丘文庫」でありました。事業を続けると同時に粘り強く研究活動を中断しなかった博士は、一つ二つと集めた資料を「靴工場」の最上階に整理して置き始めました。そして遂に十余年前には神戸の須磨に自宅と共に新しい建物を建て、別途に青丘文庫を設立して運営されたのであります。

「朝鮮民族運動史」「在日朝鮮人運動史」「キリスト教史」という三つの歴史学的関心を持って学会運営、論文集刊行、学術支援活動を継続し、博士自身も継続的な学問活動を止めることはありませんでした。そして1997年既往の学術的成果と満州地域のキリスト教史関連の論文で、母校である同志社から神学博士の学位を取得されました。今はその多くの青丘文庫の資料を新しく建て直した神戸市立図書館に全て寄贈し、別途に青丘文庫閲覧室を設けて公共化し、後学たちに継承的研究をゆだねた後に神からの招きを受けられました。

 博士を送って悲しみに沈んでいる私は、1985年資料蒐集のための初めての日本訪問で博士にお会いし、1989年から92年まで同志社大学での研究生活中には博士の青丘文庫で毎月学会活動をし、そこで様々な形で愛を受けました。何よりも数ヵ月前に先に亡くなられた蔵田雅彦教授と共に個人的、共同体的学術活動を持続したことは忘れることが出来ません。この時期に我が韓国キリスト教史研究所と博士の篤実な協力、友誼関係も形成され、いつも信仰と学問の同志的紐帯を実行して来ました。同時に博士と関連して一際忘れることの出来ない事は私が日本滞在時に起こったことですが、同志社キャンバスに尹東柱詩人の詩碑を建てたら良いのではないかという世情に疎く稚い後輩の懇請に耳を傾けて下さり、「当時は互いに対面したことはないが、私も同じ時代に同志社に通ったのだし、尹東柱とは同窓生ではないか」と言われ、在日韓国人同志社卒業生たちで民団、総連を問わず尹東柱記念事業会を組織されました。事業会会長として東奔西走されたその活動により、念願だった尹東柱詩碑が1995年2月「尹東柱50周忌」に同志社キャンパスに建てられるようになったことも、実際は全て博士の功績であります。

 博士は韓国人であり日本人でありました。博士はキリスト教徒であり時には社会主義に心酔することもありました。博士は学者であり事業家でありました。このように見ると、博士はいつも実体性が問題となる「周辺人」の状況に接して生きなければなりませんでした。しかし小さな体躯に強固に整えられた彼の思想と確固とした主体性は実体性混迷の与件をむしろ「包括」と「連帯」の創造的緊張に昇華させました。どこに属さねばならないか、何を中心にしなければならないかという混迷に出会った時、博士は両方の全てを知って理解しながら、その関係性を訊ねる積極的な立場を取ったのだとよく言われました。

 今韓日間にまた一つ大きな星が消えました。歴史を生そのもので証言された方、その関係の歴史を緻密な学説で論説された方、そしてこのような作業に熱意を持つ若い後学たちを激励して後援する支柱が、我々の傍から旅立たれました。その席がどれ程大きいのか分かりません。

 しかし博士よ、安らかにお眠りください。悲しみが大きければ大きいほど、失われた空席が空っぽであればあるほど、神はそれに耐える力も与えられることを信じます。今残された者たちが先生をたよりにしてきた怠慢を払い除け、負わせた責任を覚醒して新しい使命を果たすことになるでしょう。博士はこれ程大きく偉大な召命を険しい道ごとによく駆けてこられました。今長い間心のなかに秘めていた悲しみや、胸をえぐるような「恨」が有れば、神戸の須磨海岸の青い波で洗い流し、神の恩寵の翼のなかで永遠にお休みください。

 

 

先号(126号、98年2月)月報の訂正

2頁19L 文献批評 → 文献批判

2頁20L 「鮮人単身‥‥」 → 「韓人単身‥‥」

3頁 4L 自主した → 自立した

 

 

青丘文庫研究会のご案内

第203回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会

98年3月15日(日)午後1時

報告者 金英達

テーマ「碑(いしふみ)が語る在日朝鮮人・日朝関係史―関西における石碑・石塔あれこれ―」

 

第169回 朝鮮民族運動史研究会

98年3月15日(日)午後3時

報告者 李景a

テーマ 「ハワイ時代の李承晩」

 

※ 会場は、神戸市立中央図書館

(078-371-3351、地図参照)

 

巻頭エッセー担当

4月号(藤井幸之助) 5月号(堀内稔) 6月号(藤永壮) 7月号(水野直樹)

8月号(休刊) 9月号(坂本悠一) 10月号(横山篤夫) 11月号(浅井良純)

12月号(藤井たけし) ※締め切りはそれぞれ前月の20日です。よろしく。

 

編集後記

 

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