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青丘文庫研究会月報<236号> 2009年10月1日

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 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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●青丘文庫研究会のご案内●

 ■第314回・在日朝鮮人運動史研究会関西部会

  10月11日(日)午後1〜3時

  「戦前期大阪における朝鮮人の民族信仰・朝鮮寺と宗教政策

    ―朝鮮仏教可否問題から「敬神崇祖」の神社参拝へ―」

                    塚ア昌之

 ■第268回・朝鮮近現代史研究会

  10月11日(日)午後3〜5時

   「朝鮮戦争後における朝鮮華僑の現地化について

   −1960年前後における華僑聯合会と国籍問題を中心に−」

                     宋伍強

 ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫  TEL 078-371-3351

 

<巻頭エッセー>

アメリカ国立公文書館を訪問して   松田利彦

  

 さる20099月に、約1週間ワシントンDCに滞在して、メリーランドにあるアメリカ国立公文書館(the National Archives and Records Administration。通称NARA)に通った。NARAは膨大な宝の山であると同時に、その中から目ざす資料を探し出すことが大変なことでも知られる。初めて訪れる私は調査の準備段階から緊張した。

 NARAの利用案内としては、仲本和彦『アメリカ公文書館徹底ガイド』(凱風社)、工藤洋三「米国立公文書館を利用する」(『空襲通信』第10号)のような利用価値の高いガイドがすでに刊行されている。朝鮮史関係としては、保護国期韓国の国務省関係ファイルのリストや、解放後の南北朝鮮関係文書の復刻資料集などが出されている(松崎裕子「米国国務省外交記録Numerical and Minor Files 1906-1910 韓国関係ファイル一覧」『コミュニティ政策研究(愛知学泉大学)』第6号、鄭容郁・李吉相編『解放前後 美国 対韓政策史 資料集』図書出版ソニン、など)。事前調査は調査全体の成否を決める。以下、私の経験から気をつけるべき点を書き出してみた。

 まず、できるだけ調査範囲を具体的に絞りこんでおくことである。図書館と異なり、文書館の場合は所蔵資料一つ一つが検索可能になっているわけではないので、広範囲の関連資料を効率よく集めるのは一般には難しい。NARAのオンライン目録(http://www.archives. gov/からArchival Research Catalog(以下、ARC)に入る)の場合は、Boxレベルまでしか検索できない場合もあれば、Folderレベルのタイトルまで入力されている場合もある。今回は、日中戦争期、石原莞爾によって唱道され朝鮮人も巻きこんで展開された「東亜聯盟運動」が、戦後(19461月)にGHQによって解散指定を受ける過程で集められたであろう文書、というように探査範囲をごく小さく絞っておいた。

 収集資料の範囲の絞りこみと同時にすべきことは、前記ARCで検索したりNARAのアーキビストに連絡をとったりして、資料についての情報を集めておくことである。ARCで「Toa Renmei」や関連団体の名前などを検索すると、9件のヒットが得られる。私はこのリストをNARAのアーキビストにメールで送り、請求記号を問い合わせるとともに、リストの文書の大半を収めるRecord Group331の文書(のFolderタイトル)は全てオンラインで検索可能になっているのかを照会した(照会の結果、未入力情報はないとのこと)。

 最後に、資料の重複調査が重要だ。はるばるワシントンまで調査に行って手に入れた資料が、実は日本国内で見れるものだったというような事態は避けたい。今回調査対象とした東亜聯盟運動関連文書を含むRecord Group331はいわゆる日本占領期文書であり、国会図書館憲政資料室が大量に収集している。同室所蔵の日本占領期文書はオンラインで検索できるが

http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/senryo/senryoguide.html)、ARCと目録の取り方が違うこと、また国会図書館の検索システムでは原文書のNARAでの請求記号が完全にはわからないことなどにより、資料の同定は意外と面倒である。結局、一部は、国会図書館まで足を運んで現物を確認することになった。

 実際にはこうした事前準備だけでもかなりの試行錯誤もあったのだが、あらましを整理すると以上のようなことになる。アメリカ国立公文書館を使い慣れている研究者ならよく知っていることばかりかと思うが、今後利用される方の参考になれば幸いである。

 

313回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2009.7.12

日本共産党「50年分裂」と在日朝鮮人−広島の事例− 黒川伊織

  

 近年,1950年代の社会運動についての研究が多くあらわれているが,これを語る上でひとつの結集軸としてあった日本共産党および,これと表裏一体に活動を行ってきた左派在日朝鮮人運動の活動とが,その論点として主題化されてきたとは,いまだ言いがたい状況にある。その一因には両者にとっての「1950年代」が,日本共産党にとってはいわゆる「50年分裂」・武装闘争・六全協の経験として,左派在日朝鮮人運動にとっては民戦から総連への路線転換という,いまだ歴史的評価が定まらないままの,そして当事者にとっては生々しい痛苦の記憶として,なお残存しているゆえである。本報告では朝鮮戦争下における日本共産党と左派在日朝鮮人運動の関係性について,日本共産党「50年分裂」における国際派の拠点地域であり,朝鮮戦争における原爆使用声明に被爆地としての対峙を余儀なくされた広島の事例に着目し,地方紙『中国新聞』の記事を中心に事実関係の整理を行うとともに,日本共産党員であり,サークル詩誌『われらの詩』を主宰した原爆詩人・峠三吉の詩作とあわせてこれを読み解くことで,日本共産党と左派在日朝鮮人運動の関係性について,近年の1950年代サークル詩運動研究の動向と連関させての検討を試みた。

 峠『原爆詩集』(青木文庫,1952年)に収録された「墓標」は,その初出が朝鮮戦争勃発直後の195010月であったことをふまえると,従来解釈されてきたようにただ被爆死した小学生への鎮魂をうたったにとどまらず,朝鮮戦争への「反戦」の希いがこめられた部分(だまって立っている君たちの/その不思議そうな瞳に/にいさんや父さんがしがみつかされていた野砲が/赤錆びてころがり/クローバの窪みで/外国の兵隊と女のひとがねそべっているのが見えるこの道の角/向うの原っぱに/高くあたらしい塀をめぐらした拘置所の方へ/戦争をすまい,といったからだという人たちが/きょうもつながれてゆくこの道の角)や,当時国際派の主導のもとで展開されていた原水爆禁止を訴えるストックホルム・アピール署名運動との連関を示唆する部分(負けるものか/まけるものかと/朝鮮のお友だちは/炎天の広島駅で/戦争にさせないための署名をあつめ/負けるものか/まけるものかと/日本の子供たちは/靴磨きの道具をすて/ほんとうのことを書いた新聞を売る)などからは,当時の峠の詩作を朝鮮戦争勃発直後の国際派指導下での「反戦」運動の経験をふまえたうえで再読すべきことを示唆していよう。とくに,ここで朝鮮人の存在が可視化されてうたわれた背景には,当時広島において日本共産党県委員会と民戦中国地方本部が隣接し(ともに広島市中心部の福屋百貨店近辺にあった),日常的に両者が密接に関係した活動を行っていたことがあり,その象徴的事件として195086日に福屋百貨店および映画館での朝鮮戦争「反戦」ビラ配布事件が起きている(これら事件によって朝鮮人4名が検挙された)。

 しかしながら,周知のように19518月のスターリン裁定により国際派は所感派への屈服・復帰を余儀なくされ,日本共産党五全協(195110月)を契機とした「反米」武装闘争路線への転換により,朝鮮人党員がそのミリタントとして最前線へと押し出されることになるとともに,日本共産党においては所感派が主流としてそのヘゲモニーを握ることになった。日本共産党の指導下にあった日本人自由労働者および朝鮮人によって実行された195231日の法務府特別審査局襲撃事件以降頻発した実力闘争のなかで,53日に朝鮮人一斉検挙が広島市近郊の古市朝鮮人部落で行われ,13日には広島地方裁判所の法廷より検挙された朝鮮人を「奪取」し逃走させる「被疑者奪取事件」が起きることになる。その容疑者として,日本共産党Y機関関係者,日本人自由労働者および多数の朝鮮人が6月までに検挙され,広島における実力闘争は終焉を迎えることになったが,峠および『われらの詩』もまたこの動向と無関係ではなく,『われらの詩』15号(19526月)の巻頭には当時古市にあった朝鮮人学校児童の詩作が掲載されるとともに,同号では古市での朝鮮人一斉検挙および被疑者奪取事件容疑者検挙への抗議が表明されることになった。

 このような被爆地広島における朝鮮戦争下での日本共産党と朝鮮人の「共闘」による「反戦」/「反米」闘争の経験は,1955年の在日朝鮮人運動の路線転換と日本共産党六全協以降,歴史の彼方へと忘却されることになった。その一因としては1950年の「反戦」闘争が国際派によって,1952年の「反米」闘争が所感派によってそれぞれ担われたという「50年分裂」の直接的影響が,当事者をしてこの経験を語らしめることを封印させたということがあると思われ,報告者は日本共産党史研究の立場から今後ともこれについての事実関係の掘り起こしを行ってゆきたいと考えている。

 

313回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2009614日)

「福音印刷合資会社と在日朝鮮人留学生の出版史」 小野容照

  

 近代以降, 朝鮮人留学生の増加とともに, 日本では朝鮮人による出版物が数多く発行された。とりわけ, 1910年代の武断統治下の朝鮮内では言論の自由がほとんど認められていなかったため, 日本で出版物を発行することの重要性は極めて高かった。しかしながら, 在日朝鮮人の出版物が, どこで印刷されたのかという問題に着目した研究はない。報告者がこの問題を重視するのは, 戦前の日本において, ハングルの活字を持ち, かつ朝鮮人の出版物の印刷業務を引き受けてくれる印刷所を探し出すことは, 決して容易なことではなかったからである。韓国併合以降, 朝鮮人は日本で朝鮮人経営の印刷所を1925年まで持たなかったため, それ以前に朝鮮人が日本で出版物を発行する際には, 日本人が経営する印刷所を使用せざるを得なかった。

 1914年の『学之光』から1922年まで, 朝鮮人(留学生が大半)の出版物は, その大半が横浜にある福音印刷合資会社で印刷された。管見の限りでは, 具体的に福音印刷合資会社で印刷されたことが確認できる朝鮮人の出版物は, 在日本東京朝鮮留学生学友会の機関紙『学之光』, 朝鮮女子留学生親睦会の機関紙『女子界』, 同じく朝鮮女子留学生を中心に発行された家庭雑誌『女子時論』, 在日本朝鮮基督青年会の機関紙『基督青年』と『現代』, 朝鮮最初の文藝雑誌『創造』, 同じく文藝雑誌の『緑星』, 朝鮮人社会主義者が日本で発行した雑誌『大衆時報』と『前進』の9種類である。京都在住の留学生を中心として京都で発行された『学友』と, 『大衆時報』の姉妹紙で, 日本語で書かれた『青年朝鮮』, 柳泰慶を中心に, 朝鮮, 中国, 台湾の留学生らの論説が掲載された『亜細亜公論』を加えれば12種類となる。これは1914年から1922年の間に日本で創刊された出版物の大半を占める。

 報告では, 福音印刷合資会社がどういった印刷会社であったのか, なぜハングルの活字を持っていたのかなどを論じた。結論から言えば, 福音印刷合資会社がハングルの活字を持っていたのは, 朝鮮聖書会社の支配人であったルーミスと関係の深い印刷所だったため, 朝鮮語聖書の印刷を古くからしていたからであった。

 また, 福音印刷合資会社には朝鮮人留学生らが出版物の印刷のためにたびたび通っていたが, その際, 活版印刷術を学ぶものもいた。とりわけ, 朱耀翰や廉想渉はこの印刷会社と深い関わりを持っていた。

 福音印刷合資会社で印刷された朝鮮人の出版物が1923年以降確認できないのは, 関東大震災の被害によって倒壊したからであった。1914年以来活用してきた印刷所を失った朝鮮人留学生らは, 印刷所を転々としたのち, 結局1925年に朝鮮人経営による印刷所・同聲社を設立する。福音印刷合資会社の倒壊は, 同聲社設立の拍車をかけることになったといえるだろう。詳しくは, 200910月末日刊行の『在日朝鮮人史研究』39号に掲載予定の「福音印刷合資会社と在日朝鮮人留学生の出版史(一九一四〜一九二二)」を参照されたい。

 

【今後の研究会の予定】

 11月8日(日)、在日(砂上昌一)、近現代史(高誠晩)、12月13日、在日(杉本弘幸)、近現代史(未定)、2010年1月9日、在日(高木伸夫)、近現代史(未定)。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 

【月報の巻頭エッセーの予定】

 10月号以降は、三宅美千子、吉川絢子、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

【編集後記】

 みなさん、秋です。ごきげんよろしゅう・・・・。 飛田雄一 hida@ksyc.jp

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