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青丘文庫研究会月報<227号> 2008年10月1日

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●青丘文庫研究会のご案内●

 ■第306回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

 10月12日(日)1〜5時

(1)午後1時〜3時

 1950年代の在日朝鮮人政策と北朝鮮帰還事業―帰国運動の展開と帰還事業計画の変遷」黒河星子

(2)「済州島出身者の大阪への定着過程と阪済航路の再検討」塚崎昌之

 ■朝鮮近現代史研究会はお休みです。

 ※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫  TEL 078-371-3351

 

<巻頭エッセー>

近時片々−うつ病の日々                坂本悠一

 昨年夏に発病して以降、講演・報告・原稿の類は全部断り、学会・研究会にも欠席し続けている。最近ご無沙汰していることもあるので、個人情報に終始するが、近況報告のつもりで久しぶりにワープロのキーをたたくことにした。病名は「抑うつ(鬱の漢字は最近は使われない)神経症」、いわゆる「うつ病」である。昨年の7・8月頃突然に食欲がなくなる日が続くことがあり、胃腸内科を受診したが異常はないとのこと(年末までに胃カメラを4回呑んだ)。心療内科にかかるよう勧められた末10月に正式の診断が下った。

 とにかく憂鬱で不愉快な日が続く。沖縄流に言えば「魂(まぶい)を落とした」状況とでもいうのか。症状は食欲不振(飲食物が美味しくない)、不眠(8年前に妻を亡くした前後から睡眠薬を常用しているのだが、夜中に尿意で何回も目が覚める)、不規則な排便、仕事を含めすべてのことにたいする意欲の喪失(性欲の途絶を含む)、掃除・洗濯をはじめ毎日の着替・用便・入浴・洗髪・歯磨・徒歩などの動作がおっこうになる、人と会い会話・会食するを避けるようになる、資料・書類の整理ができない、などである。「三大趣味」を自称してきた水泳、山歩き、カラオケもほとんど中断。韓国語の勉強会も欠席、韓国旅行にも行く気がしない。食べる量はあきらかに減っているのに体重は増え続け48kgから一時は56kgに、持病の糖尿も悪化したが薬は飲まなかった。

 医者に言わせれば、治療方法は休養と抗うつ剤の投与しかないということ。昨年秋学期はたまたま講義がなかったので授業(ゼミ)のほうはなんとか切り抜けることができたが、医者には黙って薬は飲まないようにしていた。10冊を超える関係書を読んでみたが、専門医はみんな投薬を脳内伝達物質を活性化させる治療の正攻法と書いてあったにもかかわらず、抗うつ剤の欠陥を指摘した薬学者の1冊の本を信じて、あえてそうしてきたのである。秋から年末にかけては母の入院−手術−老人ホーム入所などの心労もあり、今年に入っても病状はいっこうに好転しないでいた。3月になって、東京から駆けつけてきた次男と医者の説得により、結局薬は飲むことにしたが、今に至るもいっこうに効果はない。3〜7月にかけて「韓流ヨガ」教室にも通ってみたがやはり効果はない。

 4月から始まった講義が大変である。とにかく人前で90分間も喋るのは大変な苦痛である。7月、最後の1時間を残してついにダウン、血糖値が500を超え、体重は50kgに急減して緊急入院というはめになった。インシュリンと血糖降下剤の投与でなんとか2週間で退院した(この間に外出して試験の採点と成績の報告)。この秋からは講義は閉講しゼミだけにしてもらうことになった。どうやら来年4月以降は欠勤→休職→退職ということになりそうである。定年を待たずにリタイヤするのは残念であるが、どうも不治の病になりそうな気配であり、その原因のひとつが最近の職場環境にあるとしたら、早晩避けられないことのように思われる。しかし、他方では早期退職による年金不安もまた病状を悪化させる要因でもあり、正直なところ進退窮まったという状況である。

 さて、授業の準備もろくにせず、研究の方はまったく中断している日常というのは、「毎日が日曜日」のようだが、何の趣味もなくいったいどうやって時間を過ごしているのであろうか。ちなみにアパートに置いてあるテレビは災害非常時用で、普段はまったく見ない。

 研究室には日曜祭日も関係なく毎日出かけるので、実際は本や資料に囲まれた空間で過ごしていることになる。しかし、論文や専門書は見るのも吐き気をもようすのだから、これらの本や資料はたんに陳列されているだけである。これまでの本の読み方は、例外はあるが、何かの必要に迫られて、多くは執筆のために調べるというもので、読書とは言い難いものであったが、最近は文字どおり読書三昧の日々である。つまり論文や専門書以外の本、小説や伝記や写真集の類を読んで見て過ごすのが日課ということになる。

 本は朝鮮もの、台湾もの、満洲もの、沖縄もの、筑豊ものなど興味にまかせて読んでみた。朝鮮関係の長編小説としては趙廷來『太白山脈』(日本語訳)、金石範『火山島』が印象深かった。前者はパルチザン闘争の時間と空間を描く構成力、多様な登場人物とも本格的な作品であり、翻訳も優れている。後者は済州島4・3事件を舞台に、主人公の心理など人間の内面を深く描いた秀作である。関連した翻訳ドキュメントとして記憶に残るのは、李泰『南部軍』、金聖七『ソウルの人民軍』などである。なお未完であるが、李恢成『地上生活者』は戦後在日青年の生活を描く大作である。

 こうして研究室や高槻の自宅の書庫にはこれまでなかった類の本がどんどんと増える結果になる。遠からず研究室は引き払わねばならないから、この本の置き場所をどうするか。研究書はいっそのこと全部処分するか?そんな心配をすると、ますます気分が憂鬱になるのである。今後の人生でなにか目標があるとすれば、「茶飲み友達」と再婚するか、6月に誕生した日韓混血の初孫(カナダ在住の長男の長男)の成長を見届けることしかないかなどと思っている。

 

305回・在日朝鮮人運動史研究会(2008713日)

夜間中学に学ぶ在日朝鮮人女性

―作文とライフヒストリーにみるポスト植民地問題―  山根実紀

 

 本報告は、植民地時代に学齢期を過ごした在日朝鮮人女性の不就学・非識字を規定した諸要因を明らかにし、それが、解放後の生活をどのように左右したのか、つまりポスト植民地主義的状況を、民族・階級・ジェンダーの重層的差別との相互関係から考察した。対象とするのは、あらゆる初等教育機関からの疎外、および日本語と朝鮮語の習得機会からも疎外され、高齢になって夜間中学(京都)で学ぶ在日朝鮮人女性であり、単に政策や統計などを分析するだけでなく、彼女たちの具体的な経験に基づいて考察した。

 日本において、1920年代までに男女とも就学率は99%に達しているが、1937年の『市内在住朝鮮出身者に関する調査』によると、京都市在住の6歳以下の児童を除く在日朝鮮人の教育程度は、男性59%、女性86%が「教育無きもの」として扱われている。在日朝鮮人の、特に渡日1世・2世の女性にとっては、不就学は常態化していた。貧困、ジェンダー、民族差別などが背景にある。この時期の不就学・非識字体験は、後の生活面での困難、社会的序列化の権力関係へと巻き込まれ束縛していく。しかし一方、就学できたとしても「皇民化教育」であったから、植民地支配下においては、就学/不就学、識字/非識字はどちらも暴力性を含むものだったと言える。1945年以降は、戦後の混乱の中、学校どころではなかったし、在日朝鮮人独自の民族教育運動も抑圧されていた。その負担は、特に家事などに従事している女性が担わされた。

 ところで夜間中学は、1947年の新学制発足後、昼間働いている生徒のために開設された。1954年度には、学校数・生徒数ともにピークに達したが、文部省による夜間中学の法的根拠の否定的見解が根強かった。1966年の行政管理庁の「夜間中学廃止勧告」は、夜間中学廃止に拍車がかかった。これを受けて、元夜間中学生たちが「夜間中学廃止反対、設立要求」を訴え、1970年以降、学校数・生徒数は再び増加し、生徒層も多様化してきた。1970年代は、帰国事業の終了と、日韓条約を契機とした「同化政策」、夜間中学の増設運動の成果、在日朝鮮人女性の高齢化が後押しして、夜間中学や識字教室に、在日朝鮮人女性の姿が見られるようになり、日本語の識字問題が顕在化することになる。

 筆者は、京都で唯一の夜間中学であり、生徒の約七割(2006年現在)が在日朝鮮人女性である京都市立洛友(旧郁文)中学校二部学級(以下、洛友中)において、20069月から200712月まで、学習補助ボランティアとして通い、フィールドワーク調査を重ねた。洛友中の過去28年分の作文集から、総計1824作品のうち本名(民族名)による838作品を抽出し、特に「生活体験」要素(全体の32%)を含む作文に焦点を当て具体的な内容の分析を行った。併せて夜間中学生のライフヒストリーの聞き取り調査も行った。

 彼女たちに共通して言えることは、就職差別や無年金という条件下では、高齢になるまで働かなければならず、仕事や子育てが落ち着いた頃ようやく識字への関心を抱かせる。しかし、民族の言葉や文化が尊重されず、自民族の文字以上に日本語に関心を寄せざるを得ない日本の文字社会において、やはりその関心は日本語へと集中せざるを得ない。そして夜間中学に通い日本語の読み書きを「解放の道具」として主体的に獲得し、生活面での困難の解決、主体性や自己回復を果たす。しかし同時に、夜間中学では「国語」の時間に、日本語の学習をする。植民地時代には学ぶことを蔑ろにされ強制されもした日本の学校教育や日本語で、自己の尊厳を回復していくという皮肉さを感じる。このような彼女たちを取り巻く錯綜した状況が、植民地支配の結果であり、現在まで再生産されてきた諸矛盾ではないだろうか。

 

306回・在日朝鮮人運動史研究会(2008914日)

 「戦前・戦時下の石川県の在日朝鮮人

         −人口・土工・融和団体・朝鮮飴売り−」  砂上 昌一

 

 「戦前 戦時下の石川県の在日朝鮮人」をテーマに人口推移を中心に土工と集住地形成の関連、内鮮融和団体共栄会の活動や朝鮮飴売りについて報告した。これらについては地元新聞『北国新聞』のマイクロ・イルムを参照した。

 人口推移については小松裕/木村健二編著『「韓国併合」直後の在日朝鮮人/中国人』中の1912年警視庁調査による石川県の人口調査を端緒にした。ここで石川県の朝鮮人9人の内訳は飴行商6人、鉱山鉱夫2人、湯屋火夫1人であった。この年の内務省調査は4人であった.これ以後石川県内の朝鮮人人口は漸増していったが、1929年の内務省調査では前年の5百人から倍増して初めて千人台に入った.この増加の現象については明らかにする必要がある.すなわち、富山県や福井県の朝鮮人人口の推移は繊維工業や水電工事などの労働需要との関係が明確であるのに対して石川県ではそのような関係が明らかになっていない。

 戦時動員期における県内の朝鮮人人口は1944年、45年がピークで8千人台となった。『北国新聞』(昭和201015日)には「残留鮮人3千人程度か/石川県から帰鮮するもの5千人」と報じている。この数字から戦時動員されたものは5千人程度と考えることもできる。戦時動員期以前から日本国内に居住していた朝鮮人はすでに生活基盤を国内に構えており朝鮮半島に帰るものが少なかったことを考えるとこの数字もあながち不正確とは言いない。

 朝鮮人の県内の動員先としては尾小屋鉱山や小松製作所粟津工場、電気冶金工業などが明らかになっている。この他にも七尾港でのセメントの荷役人夫、地下軍事工場や小松飛行場の拡張工事などが明らかになっているがその詳細については今後の課題である。

 石川県の主な内鮮融和団体の一つ共栄会については、地元紙『北国新聞』にその活動が頻繁に報じられている。それらの記事からは、最初の朝鮮人同胞の相互扶助や日本人に対する啓蒙活動が、協和会の結成を機にこれらの独自色は次第に薄められていったことがわかる。特に国防献金などは美談として取り上げら内鮮一体への醸成に利用されていった。  例えば、当時県内では2番目の朝鮮人集住地であった加賀市大聖寺町の内鮮融和団体弘道会は朝鮮人の志願兵実施が決まると「これでこそ名実共に/大国民の一員だ/朝鮮志願兵の実施に/歓声をあげる弘道会」『北国新聞』(昭和13年・123)と大きく取り上げられている。このように地方の内鮮融和団体が戦争協力に加担されていったことがわかる。

 この共栄会を19268月に水平社の北原泰作が訪れて支部の設置をオルグしていたことが翌年271125日付けの『北国新聞』に報じられている。この時支部の設置が成功していれば石川県の部落解放運動は新たな展開を迎えていたかも知れない。

 1920年代の朝鮮人の主な仕事が土工や人夫であったことは良く知られているが、その他に朝鮮飴売りなどもまた当時の彼らの主な仕事であった。そのような朝鮮飴売りの姿を中野重治は自伝的小説『むらぎも』で東京の朝鮮飴売りを描写している。また、詩「大道の人びと」で金沢市内の朝鮮飴売りを「夜は夜で朝鮮飴/それからくじびき/彼らは一様にくろい顔をしていた・・・」と描いている。

 朝鮮飴売りの人数は東京や大阪などの都市部に比してその人数は決して少なくはなかった。その人数は1922年には金沢市内には20人余り『北国新聞』(1922716日付け)。1927年には富山県高岡市内には10人『富山日報』(1927121日付け)。28年には福井市内の朝鮮集住地区には60人『福井新聞』(1928410日付け)などが新聞記事からわかる。すなわち、1910年から20年代にかけて朝鮮飴売りが日本各地で活躍していたことが伺える。

 この研究の資料として北陸3県の地方紙を取り上げた。それらの記事の正確性や客観性などに疑問符がつくものの現在の時点では研究を補充するものとしてはいたしかたがないと考える。今後は公的資料の発掘に努めながら石川県及び富山・福井の在日朝鮮人の諸相を具体的にしていきたい。

 

【今後の研究会の予定】

 11月9日(日)、在日(未定)、近現代史(松田利彦)。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 

【月報の巻頭エッセーの予定】

 11月号以降は、斉藤正樹、高野昭雄、塚崎昌之、土井浩嗣、中川健一、玄善允、松田利彦、三宅美千子、吉川絢子、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

【編集後記】

           今号はつめつめになってしまいました。みなさん、ごきげんよう。 飛田 hida@ksyc.jp

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