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青丘文庫研究会月報<219号> 2008年1月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

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 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。

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あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

       在日朝鮮人運動史研究会関西部会代表・飛田雄一

             朝鮮近現代史研究会代表・水野直樹

 

●青丘文庫研究会のご案内●

コリアン・マイノリティ研究会第55回例会

+在日朝鮮人運動史研究会関西部会第299回例会■合同企画フィールドワーク■

伊丹空港建設と中村地区−移転問題を通して−

■日 時:2008年1月13日(日) 14:0017:00 (雨天決行)

★集合は13:30までに阪急伊丹駅またはJR伊丹駅の改札口か、14:00現地集合

■会 場:伊丹市「市営桑津住宅」(中村地区団地)集会所(住居表示は伊丹市桑津4)

★阪急伊丹駅・JR伊丹駅下車、東に、徒歩約1km。猪名川「桑津橋」を渡り、堤防の歩道を北に歩けばすぐに5階建て団地。集会所はその北側。駐車スペースあり。

■参加費(資料代込み):一般1000/学生・院生500/高校生以下無料

★フィールドワーク・交流会とも【事前予約】が必要。⇒ masipon@nifty.com 06-6328-1073

【お 話】 丹山判同(たんやまはんどう)さん(中村地区自治会会長)

【案 内】 朱 燮(チュヂョンソプ)さん(中村地区自治会副会長)

 ★終了後、交流会を開催します。【要予約】

●コリアン・マイノリティ研究会● http://white.ap.teacup.com/korminor/

(当日090-9882-1663 藤井)●在日朝鮮人運動史研究会関西部会● http://www.ksyc.jp/sb/

 

■巻頭エッセー

「多民族共生教育フォーラム2007東京」、開催される

−外国人学校の制度的保障を                 佐野通夫

 

 いま日本には、さまざまな国籍(188カ国)の外国人が200万人以上暮らしています。また、朝鮮学校や韓国学校、中華学校、ブラジル学校、ペルー学校、インド学校、インドネシア学校、フィリピン学校、アメラジアンスクール、インターナショナルスクールなど、数多くの外国人学校・民族学校があり、外国籍の子どもや、外国にルーツを持つ日本籍の子どもたちが学んでいます。民族的マイノリティの子どもたちにとって、親からの言語や文化を継承し学ぶ学校は、大事な教育機関です。これらの学校は、歴史も規模も教育言語も、じつにさまざまです。  しかし、これらの学校に共通することがあります。日本国政府が、これらの外国人学校・民族学校を普通教育・学校教育を行なっている正規の学校として認めないために、卒業しても「学卒」の卒業資格を得られず、また、国庫からの財政援助がまったくないのです。

 114日、外国人学校や民族学校で学ぶ子どもたちの教育を考える「多民族共生教育フォーラム2007東京」が開催され、約30校の学校関係者や市民、約300人が参加しました。2005年の神戸、2006年の名古屋に続く3回目のフォーラムです。

 「日本各地の取り組み、外国人学校からのメッセージ」、「外国人学校に通う子どもたちからのメッセージ」、パネルディスカッション「多民族・他文化教育へのロードマップ−外国人学校の制度的保障」と続いたプログラムの中で、圧巻は外国人学校にいる子どもたちの発言でした。

 小学生のときに日本にやってきて、日本の学校ではげしいいじめに合います。その発言を通訳する通訳さんが思わず涙するほどです。「日本語が分からずに作文が数行しか書けず、同級生や担任の先生にまで笑われた。いじめは続き、悲しくて学校に行けなくなった」。そのため、ブラジル人学校に移りますが、通学には通学定期の適用がないので、4万円。そして上に述べたように学校の運営にいっさいの補助がないので、学費は月に約10万円の負担になります。日本に「デカセギ」に来ている親にとって、決して軽い負担ではありません。そのため、「日本語が分からなくて」日本の学校に場を持てず、外国人学校に移ることもできなくて、不就学になる子どもが年々増えています。

 パネルディスカッションの中で『在日外国人』(岩波新書)などの著書のある田中宏さんが言っていました。ブラジル人がいろんな国に行くけれど、自分たちで学校を作らなければならないのは、日本だけだ、と。異質なものを認めず、いわゆる海外帰国生徒からも「外国はがし」(その子が海外で身につけた文化を表現させない)を行なう日本の姿が現れています。

 フォーラムの最後には「外国人学校の制度的保障に関する市民提言・2007」が採択され、「多文化共生教育基本法」の制定と外国人学校の制度的保障を求めると同時に、「緊急に取り組むべき課題」として、実態調査、外国人学校(各種学校/未認可校)への支援を求めています。

 「日本における「多民族・多文化共生教育」の展開は、国籍・民族・人種を問わず日本社会を構成するすべての人びと、すべての子どもたちに、複数の豊かな文化をもたらし、偏見と憎悪ではない、共生と平和を希求する新たな社会観・世界観をもたらすに違いない」(市民提言から)のです。

 

■第295回・在日朝鮮人運動史研究会関西部会(200799日)

「戦後、「不法占拠型」在日朝鮮人集落の形成と消滅」

     本岡拓哉(日本学術振興会特別研究員、大阪市立大学・院生)

 

 戦後の在日朝鮮人集落はその成立の過程を大きく二つに分類することが出来る。一つは日本人地主が建てた借家や長屋を朝鮮人が借り、そこに同胞が集まってきて住み着くといった、「合法」的な借地・借家に朝鮮人が多住したケースである。もう一つは、戦後の混乱期に土地の所有者が明確でなかった河川敷などに、他で住宅を借りられなかった朝鮮人がバラックを建て住みついた、「不法占拠」的な集落(バラック街とも呼ばれる)のケースである。前者は現存する場合が多い一方で、後者の地区は「不法占拠」ということから、その地区の住宅は土地の所有者によって撤去され、ほとんどが現存しない。本発表では、この後者に括られる、いわゆる「不法占拠型」在日朝鮮人集落の形成から消滅過程を、神戸市を事例に報告した。以下、その過程を要約する。

 終戦直後,都市内には住む所がない「浮浪者」や,焼け跡の土地を占拠し、自力で建てたバラックに住まわざるをえない「仮小屋生活者」が大量に現れた。両者は劣悪な居住状況においては同じであったが、その後の行政による対応は全く異なっていた。「浮浪者」が取り締まりの対象となったのに対し,「仮小屋生活者」は自助努力の結果として行政に認められた。1949年に都市内への転入規制が解除され、大量の人口流入の中で、そうしたバラック街の形成は増加し、帰国を断念した朝鮮人の多くもバラック街に住まいを求めることとなった。

 一方で、1950年以降に戦災復興事業が進展する中で,バラック街の撤去が開始される。すなわち1950年代は,都市人口が増加する中で公民それぞれの住宅供給が追いつかないため、バラック街の増加傾向も依然として進んでおり,減少と増加の相反する状況が都市内において展開することになっていた。ただしこの状況を地理的に見ると、中心部のバラック街が撤去されていくことで、周縁部の河川敷や高架下にバラック街は残存していったのである。また、居住者の構成も同様に社会周縁的な位置にいる人々が滞留することになり、すなわち、在日朝鮮人集落としての側面もこうした展開の中で特化していった。同時にこうした状況の中で、バラック街は社会問題としてマスメディアで多く取り上げられるようになり,特に景観,防災,衛生,反社会性といった問題が反復して報道されることで、行政によるバラック撤去活動の正当性が一般社会に浸透していった。

 そして,1950年代後半になると,バラック街をめぐる社会問題の中でも特に「不法占拠」を問題視する声が大きくなっていった。なかでも六大都市の市長会議や商工会議所が「不法占拠」対策についての要望書を法務省に提出したことにより,国会で1960年に「不動産侵奪罪」が立法化したのである。この法律が後ろ盾になり,神戸市による「不法占拠」の取り締まりが体系的に整備され、1960年代には本格的な「不法占拠」バラック街の撤去が実行されることになった。そこでの神戸市による撤去方法は、行政代執行による強制撤去を行なうというよりも、居住者と個別に金銭的な交渉を行い、自主撤去を促すことであった。そして、およそ1980年頃には神戸市内の「不法占拠」バラック街はほぼ消滅したのである。

 以上の報告を踏まえて、本発表ではいくつかの研究課題を提示した。なかでも報告者が今後取り組むべき課題は、「不法占拠型」在日朝鮮人集落の内部の実態把握とその内部から起こりうる行政に対する抵抗運動や交渉過程を明らかにすることである。これに対して、報告者は三輪嘉男氏からの提供資料により、広島市の太田川放水路沿いにあった在日朝鮮人集落の撤去をめぐる交渉過程を明らかにすることが可能であることを示唆した。この内容については今後まとまり次第報告したい。

 

■第297回・朝鮮近現代史研究会(20071111日)

叡山ケーブルカー・ロープウェイ工事と朝鮮人労働者

   ―詩人鄭芝溶のエッセイをてかがりに―   水野直樹

 

 朝鮮の現代詩を開拓した詩人として知られる鄭芝溶(1903〜?)は、1920年代半ば同志社大学に学んでいた時の思い出を記したエッセイ「鴨川上流」を残している。女子学生とデートをして鴨川の上流(正しくは高野川の上流)の八瀬村まで行ったところ、たくさんの朝鮮人労働者とその家族に出会ったという話である。「河川工事」や「比叡山ケーブルカー」の工事に「朝鮮労働者たちがとてもたくさん使われていた」として、鄭は次のように書いている。

「石工の仕事は何人かの中国人が受け持ち、その代わり日給も彼らはずっと高かった。土を掘ったり運んだり、もっこかつぎをしたりという仕事は、すべて朝鮮土工たちが受け持ったが、賃金がとても安かったのである。/数百名ずつ集まって騒がしい仕事場に、法被のような労働服は着ているが、頭に巻いた手ぬぐいの隙間からサントゥ〔まげ〕をぶら下げた人も多かった。」(『鄭芝溶全集』第2巻、民音社)

 鄭芝溶が書き残したこのエッセイを読んで、朝鮮人労働者が働いていた比叡山ケーブルカー工事のことを調べてみた。特に中国人が「石工の仕事」をしているというのが何のことか知りたいと思ったからである。

 現場の線路を見に行って、この疑問が解けた。1925年に完成した叡山ケーブルカー(京都電燈会社叡山電鉄鋼索線)は、現在も日本でいちばん高低差が大きいケーブルカーである。凹凸のある斜面に線路を敷くために、石を積み上げて橋か城壁のようなものをつくる工事が行なわれた。石工は中国人、石や土を運ぶ「土方仕事」は朝鮮人が受け持ったと思われる。

 鄭芝溶は、朝鮮人労働者たちが朝鮮南部の歌を歌っていたこと、近くに板切れやブリキ板で家を建てて、「女房、こども、弟の嫁、いとこ、夫の兄弟の妻、完全に他人同士」などと暮らしていることなども書いている。鄭らは、女たちに取り囲まれて質問責めに会ったが、朝鮮人留学生であることがわかると食事をして行けと誘われたという。鄭のエッセイは、1920年代の日本で働く朝鮮人労働者たちの生活の一端を伝えるものとして興味深い。

 叡山ケーブルカー工事の後、1920年代後半に叡山ロープウェイ(現在のロープウェイとは位置が異なる)、鞍馬電鉄(現在、叡山電鉄鞍馬線)など、京都市北東部(当時は愛宕郡)では観光用の交通機関の工事が行なわれた。これらの工事でも朝鮮人労働者が働いていたことが新聞記事などからわかっている。 

 今後、さらに詳しく朝鮮人労働者の状況を明らかにしたいと考えている。

 

【今後の研究会の予定】

 2月17日(日、※兵庫在日外国人教育研究協議会の集会と重なるため17日開催とします。ご注意ください。)在日(浅見洋子)、近現代史(水谷清佳)。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。 

【月報の巻頭エッセーの予定】

 2月号以降は、佐藤典子、田部美智雄、張允植。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

【編集後記】

           みなさまは2008年をどのようにお迎えになられたでしょうか。はたして今年はどのような年になるのでしょうか? いずれにしても?本年も青丘文庫研究会をよろしくお願いします。

           1月の研究会は、上記のようにコリアン・マイノリティ研究会と共催でフィールドワークを開催します。郵便で月報をお受け取りの方にはチラシを同封します。メール月報の方は、コリアン・マイノリティ研究会のホームページをごらんください。

                飛田雄一 hida@ksyc.jp

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