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青丘文庫研究会月報<208> 2006年11月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。

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●青丘文庫研究会のご案内●

■第244回朝鮮近現代史研究会

11月12日(日)午後1時〜3時

 日本統治時代にブラジルへ移住した朝鮮人

〜韓国系コロニアの礎となったクリスチャン「三田昇浩」こと「張昇浩」〜 全淑美

■第286回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

11月12日(日)午後3時〜5時

 戦後・在日朝鮮人教育の形成から10年―体験と検証― 梁永厚

※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫

  神戸市中央区楠町7-2-1 TEL 078-371-3351

  (地下鉄大倉山駅下車すぐ、JR神戸駅北10)

 

●巻頭エッセー●

京都・三宅八幡神社「韓国合併奉告祭碑」の謎      水野直樹

 

 「朝鮮に関わるフィールドワーク」というと、強制連行・強制労働の現場を訪ねるというイメージがあるが、私が最近よく頼まれるのは、もう少し広い意味で朝鮮(人)に関わりのあるところの案内である。特に、近代の日本と朝鮮との歴史的関係を考えることができるようなところを案内するようにしている。京都市内やその郊外には、「併合」前後の時期から朝鮮人労働者が働いていたところ、朝鮮に関わりのあった政治家や財界人の建てた別荘などが残っている。しかし、説明を聞かなければ、誰もそれには気づかない。

 もちろん、日本と朝鮮との関係を明確に示すものが残っている場合もある。桃山陵(明治天皇の墓)のそばにある乃木神社には、朝鮮総督を務めた南次郎の揮毫した「忠魂」碑がある。さらにはっきりと日本と朝鮮との歴史的関係を示しているのが、京都市左京区にある三宅八幡神社の「韓国合併奉告祭碑」である。3メートル近い高さの大きな石碑には、漢文で碑文が刻まれている。

 「明治四十三年九月二十九日、詔して韓国を合併し、以て普く内外に告ぐ。ここにおいて山城国愛宕郡三宅八幡神社の社掌と氏子、高野部落の住民、ともに奉告祭を行わんことを謀り、盛事を碑とし、以て後昆〔子孫の意〕に伝えんことを欲す」と記されているので、1910929日、つまり韓国併合発表からちょうど1月後に、この地(当時は愛宕おたぎ郡)で執り行われた「奉告祭」を記念する石碑であることがわかる。

 碑文は、古代以来の日朝関係を振り返って、朝鮮を日本が支配するのは当然だとした後、明治維新以後も日本が朝鮮を「保護」してきたが、国運が危うくなったため韓国皇帝が天皇に領土を譲った、それが韓国合併である、という認識を示している。「韓国の八域」が「永く吾が帝国の版図」となったのは「盛事」「隆運」であり、この「盛徳大業は、万世に亘りて泯〔ほろ〕びず」と締めくくっている。

 この碑文は、「併合」に対する当時の一般的な見方を記したものといえる(今も同じように考えている日本人も多いかもしれない)ので、とりたてて検討しなければならない内容ではない。しかし、理解できない点がいくつかある。まだ京都市に編入されていなかった高野村で「奉告祭」が開かれただけでなく、なぜこんなに大きな石碑までたてられたのか。

 石碑をよく見ると、篆額つまり題字を書いたのは、「貴族院議員、従二位勲一等、男爵北垣国道」、碑文を草したのは湯本文彦という人物であることが記されている。北垣は1881年から1892年まで京都府知事を務め、琵琶湖疏水事業を推進した人物であり、湯本は京都府庁に勤めた歴史学者で、平安遷都千百年紀念祭(1895年)を企画・立案した人物である。

 そのような人物が関わってたてられた「韓国合併奉告祭碑」は、京都の近代史と韓国併合が決して無縁なものでないことを私たちに教えてくれる。

 しかし、それでもなお納得できないのは、なぜ三宅八幡に石碑がたてられたのかということである。併合前後の『京都日の出新聞』を見ると、京都市内やその郊外でも盛大に併合の祝賀会などが開かれていることがわかる。しかし、高野村での奉告祭についての記事は見当たらないので(見落としかもしれないが)、奉告祭が開かれ石碑がたてられた経緯は不明である。ひょっとすると、当時日本のあちこちで同じような石碑がたてられたが、現在残っているのは三宅八幡のものだけなのかもしれない。

 フィールドワークをしながら、この謎を解く手がかりを探したいと思っている。

 

第284回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2006.7.9)      

「ウトロ。まちづくりは可能か」         斎藤正樹(ウトロを守る会)

 

1、日本政府の責任を求める国際世論

 2005年7月、国連人権委員会(その後、人権理事会に改組)の人種主義・人種差別問題を担当する特別報告者ドウドウ・ディエン氏が日本を公式訪問し、在日朝鮮人集落・ウトロ地区(京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地)を実地調査した。解放前に朝鮮半島で生まれ、日本に連れてこられた在日1世住民の高齢者たちは、人生の大半をウトロですごしてきた。強制立ち退きによって、住みなれた住居を奪われることの恐怖を、住民らは彼の手を取って切々と訴えた。視察後ウトロについて、ディエン氏は「戦争目的の建設に従事し、戦争が終わればまるで道具のように捨て置かれた。まさに差別の足跡。経済大国の日本で貧困や社会から排除された状態を見たのはショッキングだった。一方で感じたのはコミュニティの連帯感の強さである」とその印象を語った。現代日本の植民地主義、人種主義・人種差別の問題として、ウトロ問題は国連人権理事会に報告される。

 すでに2001年8月、国連・社会権規約委員会は日本政府第2回報告書に対する総括所見の中で、ウトロ問題に特に言及して懸念を表明し、日本政府に住民の救済を勧告している。したがって、国連から日本政府へのウトロに対する人権救済の勧告は2度目となる。

2、韓国からの熱いまなざし

 在日朝鮮人集落、ウトロ地区(約65世帯200人)では、住民は「ウトロ町内会」に団結し、これを支援する「ウトロを守る会」が、強制立ち退きに反対する運動を18年間続けている。この間、祖国や在日の大きな団体からの支援は多くなかった。住民に対する土地所有者(不動産会社)による「建物収去・土地明渡し」裁判は、2000年11月までに住民敗訴がすでに確定している。判決確定後も住民は、居住の権利を主張してそのまま住み続けてきた。ところが、2004年春ごろからウトロ内を建物解体業者などが頻繁に徘徊し、いよいよ強制立ち退きが近いと感じさせた。そこで住民と支援者は現地で闘争を行うと共に、あらゆる機会を通じて国際世論に訴える活動を展開した。2004年9月、韓国の春川市で開催された居住問題国際会議(主催、韓国住居環境学会、日本居住福祉学会など)で、私はウトロ問題の研究発表をした。また、同行した住民や支援者が同じ演壇で、韓国政府と民衆にマスコミを通じて直接救済を訴えた。これを契機に、「ウトロは見捨てられた「在日」の象徴である」として、日本政府と韓国政府に住民の救済を求める運動が韓国内で爆発的に広がった。一例をあげると、ソウルの地下鉄のつり革に「ウトロを救え」という広告が一斉に張られるという具合である。韓国マスコミはウトロを「最後の強制徴用の村」と呼び、ウトロ現地への取材が洪水のように殺到した。こうした中で韓国政府は2004年12月、日韓外交交渉(アジア太平洋局長会議)の場で、ウトロ問題を在日の人権問題としてはじめて取り上げ、日本政府に善処を求めた。韓国の支援団体によって集められた募金は6000万円。さらに条件を満たせば韓国政府が追加の援助をする可能性が検討されている。

3、ウトロ「まちづくり」プラン

 ウトロでは支援運動やこうした国際世論が背後の力となって、裁判所のよる「強制執行」はいままで行われていない。一方、立ち退き裁判に勝訴した土地所有者側の内部で、所有権をめぐる争いが訴訟となり、この半年は最高裁の決定まちの状態にある。住民はこの結果を待って、正当な相手と土地売買交渉を持つ意向である。ただし住民側が集められる金額(援助金を含めて)には、限界がある。交渉の決定権は土地所有者側が握っており、先行きの展開は予測がつかない。

 仮りに交渉自体が成立し、住民が土地所有権を安く取得することになれば、運動の課題も「立ち退き反対」から「まちづくり」に比重を移す段階に入るだろう。だが、新たな現実的問題に直面することになる。集落の土地所有権を住民が得た後の、将来の土地所有・利用のあり方をめぐる考え方の違いである。私たち支援者の多くは、「朝鮮人集落の土地そのものが、過去から住民の生活のすべてを支える物理的基礎であり、いわば在日住民の共有財産であったのだから、今後も新たなコモンズ(共有地)として一塊のまま残し、まちづくり計画を優先して、住民は土地を利用する権利をその計画の完成後に得る」というプランを描いてきた。これに対して、「個人が占有する土地を各々が分筆して買い、個別に相続・売却ができる個人財産にしたい」という欲求が個々の住民の中から出され、将来計画が容易には書けない状況になっている。もちろん、強制立ち退き寸前の段階にあった昨年の一時期に比べれば、それは贅沢な悩みではある。

4、在日1世高齢者の居住を守ろう

「ウトロ住民からひとりのホームレスを出すことなく、戦後60年間の歴史を刻んだ在日朝鮮人コミュニティの存続とその文化を守って、周辺の地域社会とも共生して、この土地に住み続けたい」、これがウトロを守る運動の原点である。私たちはこの視点に戻って、高齢者たちの具体的生活を優先的に考えたウトロ再生計画を作っていかなければならない。あと10年、1世のアボジ、オモニがここウトロでそれなりに充実した生活を送り、安心して死んでいけるように、最も貧しく、弱い立場の人々の小さな声をひとつひとつ拾っていくことが大切である。

そして、日本の戦後社会から長い間、置き去りにされてきたウトロ住民の「恨」が解かれ、長い闘いの末に「安心居住」という具体的成果を得て、在日朝鮮人の「人間としての権利」が社会的に復権する、これが闘いの目標である。

 そのためにウトロ住民と守る会は、韓国の心ある支援者と手を結んで、もう少し頑張らないといけない。日本各地の朝鮮人集落の置かれている状態や、韓国の居住運動の歴史から学び、ウトロの現実をよく見て考え、問題の克服に向けてみんなの力を重ね合わせていこう。

 また、李玲奈(大阪市立大学大学院創造都市研究科都市政策専攻)さんから、ウトロに関連して、川崎市戸手地区の在日朝鮮人集落の様子が報告された。注目すべき問題と考えるが、ここでの報告は割愛します。

 

2006910 第285回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

1922年大阪朝鮮労働同盟会の設立とその後の活動

 ―階級的自覚、民族的自覚、大衆的基盤の再検討―」  塚崎昌之

 

 192212月に成立した大阪朝鮮労働同盟会は、11月に結成された東京朝鮮労働同盟会と並んで、日本で最初に朝鮮人が作った労働組合とされてきた。そして、その性格は「より階級的に、民族的に自覚」し、「大衆的基盤を持っていた」と高く評価されてきた。

 しかし、その結成の主体は東京在留のインテリ朝鮮人学生の金鐘範ら北星会のメンバーとその頃ボル化していた日本労働総同盟大阪連合会の西尾末広らであった。両者の後ろには結成直後の日本共産党が存在していた。金鐘範らによって急遽集められた大阪の朝鮮人はそれまでの活動の実績のない者ばかりであり、到底、社会主義思想を理解していたとは思えない人々であった。また、中心メンバーでさえ、日本語が上手く話せない者もいた。

 大阪朝鮮労働同盟会の121日の創立大会は、それまで大阪で活動してきた李善洪らと北星会、労働総同盟大阪連合会のヘゲモニー争いで流会した。従来言われてきたように、「御用団体」の長である李善洪の妨害ではなかったのである。大阪朝鮮労働同盟会は123日に成立し、「京阪神の純筋肉労働者を糾合して、…従来の在阪朝鮮人団体とは全く関係を断つて階級闘争による純労働組合を総同盟と協同戦線をしくことになつた」と報道された。しかし、結成後にこの報道のような「階級闘争」も「労働組合」としての活動もできなかった。

 1923年の労働組合としての活動は、総同盟大阪連合会が指導した争議2件への応援に止まった。活動の大半は総同盟が中心となった過激社会運動取締法案反対への集会、示威活動への参加であった。その活動を後ろから糸を引いていたのは金鐘範であった。彼は東京での委員会・集会に大阪朝鮮労働同盟会を名乗って参加していた。ただ、この年の大阪でのメーデーに大阪朝鮮労働同盟会は朝鮮人として初参加し、スローガンに「内鮮労働者団結せよ」が掲げられたことには大きな意義があったといえよう。

 1923年後半から、共産党への権力の弾圧事件、関東大震災時の社会主義者の虐殺事件等を通じて総同盟が右傾化したため、総同盟と朝鮮労働同盟会との関係が疎隔化した。大阪朝鮮労働同盟会はこの年の大阪のメーデーに参加はしたものの朝鮮関係のスローガンは姿を消した。また、金鐘範ら北星会のメンバーが朝鮮に帰国したこともあり、大阪朝鮮労働同盟会は孤立化した。そのため、1924年の活動は民族問題・差別問題へと運動の視点をシフトし、アナ系団体との共闘も多く行った。労働争議の支援も2件行った記録があるのみである。「労働組合としては何者もない」「朝鮮人労働同盟(ママ)があるが殆ど有名無実の形である」と新聞等で酷評された。

 1925年になると、総同盟が「治安維持法反対運動」に力を入れ始めたことにより、再び総同盟との関係は復活する。大阪のメーデーのスローガンにも「日鮮労働者団結セヨ」が復活した。71日、大阪朝鮮労働同盟会、西成朝鮮労働組合など七団体が在日本朝鮮労働総同盟大阪聯合会を組織、創立大会が開催された。その会員数650名とされるが、構成7団体のうち、大阪朝鮮労働同盟会は50名と最少の会員数であった。

大阪朝鮮労働同盟会は結成以来、2年間半の間で主体的な運動は作れず、大衆的基盤を持ちなかったため、政治的スローガンをもってする示威的活動でしか存在を示せなかったといえよう。

 なお、本年度の『在日朝鮮人史研究』に当該論文を掲載したので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。

 

【今後の研究会の予定】

 次回は、12月24日(日)在日・宇野田尚哉、近現代史・姜在彦+忘年会です。※日程が変更しています。ご注意を! 2007年は1月14日、在日・未定、近現代史・金慶海。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。

 

【月報の巻頭エッセーの予定】

 12月号以降は、山地久美子、横山篤夫、伊地知紀子、稲継靖之、宇野田尚哉、金誠、佐藤典子、佐野通夫、田部美智雄、張允植。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

 

【編集後記】

           紅葉が暖秋?で遅いということでしたが、ここ2.3日、急に寒くなってきましたがみなさまいかがお過ごしでしょうか。少し?遅れて月報をお届けします。

           『在日朝鮮人史研究』36号がでました。関西部会より、塚崎昌之、黒川伊織、本岡拓哉が論文を書いています。A5,260頁です。定価2520円ですが、特価2000円+送料160円でお分けします。ご希望の方は、郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>にご送金ください。 飛田雄一 hida@ksyc.jp

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