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青丘文庫研究会月報<206号> 2006年9月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

()神戸学生青年センター内  TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000

     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。

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●青丘文庫研究会のご案内●

■第242回朝鮮近現代史研究会9月10日(日)午後1時〜3時
「朝鮮支配における名前に関する政策についての学説整理 
          吉川 絢子

■第285回在日朝鮮人運動史研究会関西部会
9月10日(日)午後3時〜5時
「1922年大阪朝鮮労働同盟会の設立とその後の活動
  ―階級的自覚、民族的自覚、大衆的基盤の再検討―」
                   塚崎昌之

※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫
 
神戸市中央区楠町7-2-1 TEL 078-371-3351(地下鉄大倉山駅下車すぐ、JR神戸駅北10)

 

【巻頭エッセー】

在日外国人の子どもの教育権は? 在日コリアン4世中学生義務教育退学裁判

藤井幸之助(神戸女学院大学非常勤講師)

■中学生が退学!?

在日コリアン3世のユンミニョン〔尹敏栄〕さんと4世の息子A君が原告となって、京都市を被告に、今年2月24日に大阪地方裁判所に提訴した。訴状によると、この事件は「京都市立近衛中学校長らが、同校の生徒及び親であった原告らに、外国人に義務教育の権利も義務もないとし、原告尹敏栄が提出した退学届を受理し原告Aを退学させたため、教育を受ける機会を喪失させられたことに関して、国家賠償等を求める」裁判である。

争点は二つある。@外国人の子どもに義務教育を受ける権利があるか。A外国人の子どもの親に義務教育を受けさせる義務があるか。

■退学にいたるまで――教師不信から不登校に

A君は小学校3年ごろから、教師によるいやがらせなどから、次第に学校を休みがちになった。ひとり親家庭であることや民族名で通っていたことも同級生からのからかいの対象とされ、だんだん学校に行けなくなった。中学進学後も、基礎学力の不足のため、授業についていけず、保健室登校から不登校になった。そんな中でストレスからくるさまざまな身体症状があらわれた。

ミニョンさんは学校に対し、適応指導教室の設置などの対応をもとめたが、聞き入れられなかった。さまざまな機関に問題を訴え、不登校から脱しようと努力をかさねた。

校長との面談の際、「外国人には就学の義務はなく、除籍も可能」といわれ、学校に絶望感をもち、200010月に退学届けをだし、受理されたという。実は退学は2人の校長のもとで、2回おこなわれた。そのたびに不就学状態にされ、失望したミニョンさんたちはA君の希望で京都を脱出し、大阪府堺市に引っ越した。A君は0210月に公立中学校へ編入し、日本名で通い、そこを卒業。現在は私立の通信制高校へ通っている。

■口頭弁論はじまり、傍聴席あふれる

6月16日に、第1回口頭弁論がひらかれた。関西を中心に、関東・東海・四国から60人以上が集まり、立ち見まででた。原告弁護団と裁判長・被告代理人とのやりとりのほか、ミニョンさんの意見陳述もあり、A君が退学に追い込まれていった過程を述べた。第2回は7月28日にひらかれ、裁判を支援する会「れんか(蓮花)」も結成された。第3回は9月22日(金)午後1時半〜。大阪地方裁判所第1006号法廷。傍聴をお願いします。

【関連報道】

『民団新聞』6月21日

 http://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=4&subpage=2035&corner=2

韓国メディア「YTNテレビ」7月14日放映(6分20秒)。

http://vod2.ytn.co.kr/special/mov/global_korean/2006/200607140324248813_s.wmv

http://www.ytn.co.kr/global_korean/global_view.php?s_mcd=0930&s_hcd=18&key=200607140324248813

連絡先:なんば国際法律事務所(弁護士:リャンヨンチョル〔梁英哲〕)

 06-6214-8518FAX8518master@namba-law.com

 

第240回朝鮮近現代史研究会(2006514.)

 日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応    佐野通夫

  

 2月に社会評論社から刊行した『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』について報告した。構成は以下の通り。詳細は同書にあたられたい(なおMichio.Sano@ma4.seikyou.ne.jpまでご連絡いただければ、送料とも6640円でお送りいたします)。

 

 序 章 先行研究の検討と本論文の課題

 第1章 朝鮮における植民地教育政策の展開

  第1節 植民地教員養成体制の形成

   1 朝鮮における近代学校の成立(1870年代〜1894年)

   2 植民地教育の展開過程

   3 日本からの流入教員

  第2節 植民地朝鮮における歴史教育の展開

   1 植民地朝鮮における歴史教育制度の展開過程

    第4期 戦時体制期

   2 歴史教科書の内容検討

  第3節 植民地朝鮮における修身教育の展開

   1 祝祭日儀礼の展開過程

   2 天皇写真の配付過程

   3 修身教科書の内容検討

第2章 植民地教育の「忌避」から「受容」への転換

    −1920年代における「教育熱」の考察を中心に−

  第1節 朝鮮総督府の教育政策への朝鮮民衆の対応

   1 植民地化初期の日本の学校への忌避

   2 1920年代の「教育熱」

   3 日本人・朝鮮人の相互入学と男女構成から見る教育の受容

  第2節 「忌避」から「受容」への転換の意味

      −1920年代民族系新聞記事を通して−

      1 民族系新聞の発刊

      2 1920年代の教育状況と民族系新聞

   (1) 教育機会拡大の要求

   (2) 教育内容、教授用語についての要求

   (3) 朝鮮人・日本人の共学反対を軸にした学校制度への要求

   (4) 進学機会、大学設立の要求

   (5) 社会教育活動、また学生への勧め等

 第3章 植民地末期における教育政策

  第1節 茗荷谷文書について

  第2節 義務教育制度実施と朝鮮民衆

  第3節 戦時下の中等教育政策

 第4章 アメリカ軍政下南朝鮮における植民地教育の払拭過程

  第1節 解放直後の南朝鮮教育の諸相

   1 教育の拡大と教育制度の整備

   2 解放に伴う教育課題と教育条件

   3 高等教育の整備−国立ソウル大学校の開校

   4 解放後の教科書作成

  第2節 韓国における教育自治制度の導入と展開

   1 日本植民地時代の教育行政制度

   2 教育自治制度の登場

   3 教育法の成立と軍政法令との比較

 第5章 在日朝鮮人教育に見る植民地教育遺制と朝鮮民衆の対応

  第1節 在日朝鮮人教育の成立

  第2節 継続する植民地教育体制

 終 章

 参考文献

 

283回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2006.6.11

日本植民地時代に契約移民としてブラジルへ移住した朝鮮人一家    全 淑美

  

 昨年、国立国会図書館所蔵及びブラジル日本移民史料館所蔵の海外興業株式会社作成『伯剌西爾行移民名簿』(以下、『移民名簿』)において朝鮮人一家の氏名を発見した。また、20056月〜8月にかけての現地調査では、同時代に移住した朝鮮人他4名を確認した。

 今日までの朝鮮・韓国人のブラジル移住研究の視点は、韓国側研究者においては戦後の朴正熙政権時代に始まった移民にあり、植民地時代の移住者は韓国人と見なさず、また、日本側の研究者からはその視点外にあった。そこで、残された資料と現地調査を基に、戦前戦後を通して、ブラジル社会でどのように生きていたか、彼らの姿を追ってみた。

 朝鮮人移住者のほとんどが自由移民である中、一家は1908年より日本の国策としてとられた「契約移民」として『移民名簿』に名前が綴られている。この名簿は海外興業株式会社に移住手続を委託した人々だけの氏名が記載されている名簿であることから、彼らはその手続を経て移住したことが確認できる。渡航許可は兵庫県である。また、当時移住者には、政府より補助金が支給されていたが、彼らは「自費家族移民」(補助金なし)として扱われていた。しかしながら、コーヒー農園での契約労働者であることには違いない。

  原籍:朝鮮忠清南道大田郡大田邑大興町四七三番地

  氏名:家長金永斗49(1882年生)、妻李玉貞43(1887年生)、長男金哲洙18(1913年生)、二男金昌洙14(1916年生)、三男金達洙12(1919年生)、長女金寞ス7(1924年生)<『移民名簿』より>

 『朝鮮総督府統計年鑑』における外国旅券下付数からは彼らに該当する値は発見できないことから、一旦日本に住居を移し、手続を進めたものと考えられる。

 1931年(昭和6年)6月29日、金永斗一家はマニラ丸に乗船し、神戸港を出港、同年8月28日サントス港に到着する。名簿によると、サンパウロ州推定北西約500kmにあるソロカバナ線パラグァツスー駅フルツタール植民地という茨城県出身の小林市太郎(「邦人住所録」『伯剌西爾年鑑』伯剌西爾時報社、1933年)経営の農場と一年の労働契約を結んでいる。1933年には、太陽植民地にて数少ない独立農業者となっている。

 戦後は、家長、妻、長男は亡くなり、兄弟3人になっていた。植民地時代の他の朝鮮人移住者たちは日系社会に融け込み、そこに生活基盤を築いていたにもかかわらず、この兄弟は、二男金昌洙、長女金寞スはブラジル人と結婚し、さらに昌洙はブラジルの会社に勤めるなど、ブラジル社会に融け込んでいた。しかし、韓国語にも堪能で、戦後多くの移住者の中で、ただ一人漢文の独立宣言文を韓国語で読みあげた人物でもあった。幼少より家庭では日本語の使用を父親金永斗から禁止され、日本人と交わらないように言われていたという。そんな中、金昌洙は戦後の韓国人移住者が中心となって設立した僑民会において、第一代会長に就任する。その後、大量に発生した戦後韓国人移民の住居の保証人になったりするが、しかし、まもなく韓国人社会と連絡を絶ってしまう。戦後初期移民の証言から金昌洙は、保証人になったことから借金を背負わされたことがわかった。

 このように金永斗一家は、日本植民地時代に移住を成し遂げ、日系社会に根を下ろさず、朝鮮のアイデンティティーを保ちながら、唯一ブラジル社会に融け込んでいった家族である。その意味では「?ブラジル??」第一号と呼べるであろう。しかし、戦後韓国移民の現実から文化的な差異を感じたのであろうか、ブラジルにおける韓国系コロニアの形成期に姿を消すことになってしまった。

【今後の研究会の予定】

 次回は、10月8日(日)報告者は未定です。研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。

【月報の巻頭エッセーの予定】

 10月号以降は、松田利彦、水野直樹、山地久美子、横山篤夫、伊地知紀子、稲継靖之、宇野田尚哉、金誠、佐藤典子、佐野通夫、田部美智雄、張允植、・・・。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

【編集後記】

           8月4〜6日、済州島での強制連行交流集会は日本側から45名が参加して、楽しくかつ有意義に終了しました。次号で報告いたします。飛田雄一 hida@ksyc.jp

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