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青丘文庫研究会月報<204号> 2006年5月1日

発行:青丘文庫研究会 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1

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 @在日朝鮮人運動史研究会関西部会(代表・飛田雄一)

 A朝鮮近現代史研究会(代表・水野直樹)

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     他に、青丘文庫に寄付する図書の購入費として2000円/年をお願いします。

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●青丘文庫研究会のご案内●

■第240回朝鮮近現代史研究会
5月14日(日)午後3時〜5時
「新聞にみる兵庫県豊岡地方における朝鮮人労働者」
                 堀内 稔(むくげの会)

■第282回在日朝鮮人運動史研究会関西部会
5月14日(日)午後1時〜3時
「日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応」
              佐野通夫(四国学院大学教員)

※会場 神戸市立中央図書館内 青丘文庫
 
神戸市中央区楠町7-2-1 TEL 078-371-3351(地下鉄大倉山駅下車すぐ、JR神戸駅北10)

 

<巻頭エッセー>

 アイデンティティーについて      金隆明

 

 私は自己形成の過程で、本名と通名の使用についての揺らぎを経験した。また、国籍についても自分のどこが韓国人なのか、なかなか「韓国籍」という事実を納得的に受け入れることができなかった。しかし、大学生になり、初めて韓国に行った時(1999年)、この国が自分にとって「外国」であるということを理解した。それを経ることで、「在日コリアン」というアイデンティティーを実感をもって手に入れることができた。それから5年後、その「在日コリアン」性を思わぬことで裏づけられ、戸惑ったことがあった。

 20043月、大学の仲間と卒業旅行で韓国に行った時のことである。釜山、慶州、ソウルとまわり、笑いあり、涙ありの自由な旅路を満喫した。帰りは釜山発、大阪着のフェリーに乗り、船酔いなどおかまいなしでトランプ(大富豪)に興じ、惜別の時を共有した。もうこのメンバーで韓国に来ることはないかもしれない、という感傷にひたりながら、船内のレストランは高かったのでカップラーメンをすすった。

 翌朝大阪港に着き、入国審査をするべくパスポートを持って「日本人」用の列に並んだ。というのは、釜山からの船ということもあり、韓国人の乗客の方がはるかに多く、「外国人」用の窓口は長蛇の列を作っていたからだ。他の韓国人も同じことを考えていたようで、私の前後にも相当の人数が並んでいた。そして私のいた列の先頭の韓国人男性が自分の番だと窓口に歩み寄ると、係員が制止し、「日本人の方はいますかー?」と呼びかけた。そして一人が先頭に割り込む形になった。男性は抗議したが、無視されそのまま手続きが始まった。何か不備があったせいか途中で係員は席を外し、20分近く待たされる格好になった。係員が戻ってきた時に先頭の男性がまた抗議したが、その直後、係員は立ち上がり「ここは日本人用なんだ、ハングサラムはあっちに並べ」と怒気をあらわにジェスチャーつきでその男性だけでなく、列をなす全員に向かって叫んだ。私は仰天して、しばらく口が開いたままだった。

 待たされることは別にかまわないが、「ハングサラムはあっちに並べ」とはどういう了見か。日本語がわからないと思っているのか。せっかく楽しい旅行の最後にこんなことを言われるとは、精神的苦痛を理由にフェリー代を返してもらおうかと思ったほどだ。そして、さらに待って私の番がまわってきた。パスポートを差し出すと、その係員は「あっ、再入国の方でしたか、先に手続きできたんですが…」と言った。えっ、「ハングサラムはあっちに並べ」じゃなかったのか?混乱したが、態度が急にへりくだったので、それがまた薄気味悪かった。

 しかし、こんなところで「ハングサラム」とは区別される「再入国の方」(私)を意識させられるとは。確かに自分の中ではネイティブの韓国人との区別はあるが、この係員に担保されるのは釈然としない。いや、ひょっとしたら自分の「在日コリアン」というアイデンティティーそのものも、こうした釈然としない経験の積み重ねによって形作られたものではなかっただろうか…。そんなことを考えるきっかけになった出来事だった。

 

在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2005年6月12日)

戦前期・京都市郊外吉祥院地区における朝鮮人の流入  高野昭雄

 

 1935年の調査において、京都市南西部郊外吉祥院(きっしょういん)学区は、京都市全101学区中、朝鮮人人口率が最も高く、朝鮮人人口数も朱雀・陶化・養正に次いで4番目に多い学区であった。しかし、史料上の制約が大きいこともあって、この吉祥院に関して論じた先行研究は皆無に等しく、在日朝鮮人史の立場からも被差別部落史の立場からも分析されてこなかった。そもそも大都市郊外の半農村地区における朝鮮人の流入について論じた研究は、京都市内外を問わず、殆ど見受けられない。

 そこで、本報告では、この吉祥院学区の中でも、とりわけ朝鮮人が固まって住んだ朝鮮人密集地を中心にその流入過程について考察をすすめた。

 吉祥院では、1931年の京都市への編入に伴い、都市計画事業が進展し、その労働力として朝鮮人が流入した。京都市の南部開発事業は、流入朝鮮人が家族で定住することを可能にするほど活発に行われていた。

 朝鮮人密集地の一つとなった吉祥院部落は、周囲の工業地帯から孤立し、土建業と採砂業が中心産業となっていた。吉祥院部落に流入した朝鮮人は、被差別部落内の縁辺部に建てられたバラックに住み着き、土工や川砂利の採取夫として就業した。土建業と採砂業の両方が行われた吉祥院部落は、朝鮮人が家族で定住する条件を備えていた。

 また、新京阪電車の工事が終わり、西院付近に住むべき場所を失った朝鮮人が住み着いた先が、吉祥院の桂川河川敷である。河川敷は、洪水の害も大きく極めて居住条件の悪い場所であった。だが、この河川敷ですら安住の地ではなく、朝鮮人は再び立ち退きの対象となっていく。京都市の社会基盤整備事業を支えた朝鮮人は、厳しい居住条件におかれていた。

 現在京都市最大の朝鮮人居住地域となっている東九条や研究の進んでいる旧市域の被差別部落においても、朝鮮人の流入過程は明らかになっていない。吉祥院は、土木事業を通じた朝鮮人の流入現象が比較的明瞭なので、他地域における朝鮮人流入過程を考察する上でも参考になると思われる。

 なお、本報告を元に、論文「戦前期京都市郊外吉祥院における朝鮮人の流入過程」を『在日朝鮮人史研究』第35号(200510月)に発表させていただきました。いろいろご意見をいただいた方々に感謝いたします。

 

第281回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2006312.)

日本国憲法下の民族教育     佐野通夫

 

 本報告は、2006216日「枝川朝鮮学校取り壊し裁判」(東京地裁、H15(ワ)28577号、H16(ワ)16096号)に「意見書」として提出したものである。本意見書の全文は

http://www5d.biglobe.ne.jp/~mingakko/cf_edagawasano.htm

に見ることができるので、ここではこの裁判の背景を報告したい。

 この裁判は、東京都が江東区枝川にある東京朝鮮第二初級学校の校舎の一部を取り壊して、校地の一部約4000平方メートルを返還すること、および199041日以降の使用料相当損害金として約4億円の支払いを求めて200312月に起こしたものである。なぜ都有地に朝鮮人が住み、学校を建てるようになったのか。

 戦前、深川区(現在の江東区)塩崎・浜園には朝鮮人集落が形成されており、東京市(現在の東京都)はこれを撤去しようと画策していた。1936年、東京でオリンピックを開催(1940年)することが決定され、これを契機に東京市は埋め立てを終えたばかりの枝川地区に朝鮮人を移そうと計画した。東京オリンピックは中止となったが、移住計画は継続され、19417月、ゴミ焼却場と消毒場しかない荒れ地に1000人以上の朝鮮人が強制移住させられた。戦後、都は家賃を集めることもやめ、住宅の修理、下水道、ガスの引き込み、衛生環境の向上など、管理業務の一切を放棄した。朝鮮人はやむなく自費・自力でこれらの管理を行ない、学校は、19461月、「隣保館」の建物を借り受けて始まった。しかし、194911月、都は都内の朝鮮学校15校を強制的に都立学校とし、サンフランシスコ講和条約発効後の1955331日、都立朝鮮学校は再び一方的に廃止され、翌日付で朝鮮学園が設立されて、学校を引き継ぎ、朝鮮人の自主的な努力によって運営、維持されてきた。枝川の朝鮮学校においても、1955年以降、学校側はその校地を都から当初は一部無償、一部有償で、1960年以降は有償で借り受けてきた。校地は埋め立て地の運用により収入を得る港湾局の管轄だとされ、1968年には年間約66万円だった地代がほぼ毎年値上げされ、1970年には約300万円にまでなり、学校は地代が払えなくなった。1971年、学校は当時の美濃部都知事に、歴史的経緯と学校財政の困難さ、特に民族学校への国庫補助がないことなどを理由に、校地使用についての要望書を提出し、これを受けて、19724月、都は学校が賃料を払えなくなった1970年にさかのぼって、そこから20年間(19903月まで)校地を無償で貸し付ける契約を締結した。契約に際しては、期間満了時に「継続使用する必要がある場合には協議し善処する」約束となっており、1990年以降、都と学校は土地の買い取りも含め、何度も協議してきた。しかし、都は1990331日で校地を使用する契約が終了し、その後は学校が土地を不法に使用しているとして上記の裁判を起こしたものである。

 

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2006朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会in済州島

■日程案  ※移動は貸切バス使用

<一日目>8月4日(金)

  13:30 済州空港国際線ロビー集合(関空発9:301110着、成田発??、1220着)

   →平和博物館(日本軍地下陣地を博物館にした施設、非公開部分も見学)

  17:30 西帰浦済州大学校セミナーハウス着(泊)

  19:00〜 交流会

<二日目>8月5日(土)9時〜12時 セミナー

  0900日本側主催者挨拶/済州島側挨拶

  0920講演:済州島における日本軍施設 塚崎、済州島側1

  1030日本軍被害者による体験の聞き取り

  1100各地からの報告

  13:0017:00 フィールドワーク

    アルトル飛行場掩体壕・百祖一孫之墓(日本軍弾薬庫+4.3事件)

    →ソダルオルム上の高角砲陣地跡・ソダルオルム下の海軍地下壕

    →松岳山の海岸特攻陣地(チャングムの誓い撮影場所) ※次頁につづく

    →松岳山上の陸軍地下陣地

  18:00 宿舎着

  19:00 現地の研究者などとの交流会

<三日目>8月6日(日)

  09:00〜 フィールドワーク

    →正房瀑布(観光)→月羅峯地下陣地・トーチカ

    →御乗生岳58軍司令部地下壕→抗日記念館

  16:00 済州空港解散(成田行発1805、関空行発183020:05着)

<オプションコース>

 ▽8月3日(木)1時半〜8月4日(土)昼

   4.3事件跡地をめぐるツアー/4.3研究所のスタッフの案内

 ▽8月7日(月) ハルラ山登山

■参加費:20000円

(2泊3日の宿泊、食費、現地交通費。済州島までの航空券代は含まれません。)

■定員:40名(バス一台分です)

■申込み先:神戸学生青年センター、飛田雄一hida@ksyc.jp

■主催:在日朝鮮人運動史研究会関西部会、朝鮮近現代史研究会

 

【今後の研究会の予定】

6月11日(日)、在日・全淑美、近現代史・塚崎昌之、7月9日、在日・未定、近現代史・未定、8月休み、9月10日、在日・未定、近現代史・吉川絢子 ※研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。

【月報の巻頭エッセーの予定】

2006年6月号以降は、福井譲、藤井幸之助、松田利彦、水野直樹、山地久美子、横山篤夫、伊地知紀子、稲継靖之、宇野田尚哉、金誠、佐藤典子、佐野通夫、田部美智雄、張允植、・・・。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

【編集後記】

           みなさまゴールデンウイークをいかがお過ごしでしょうか。桜のころの寒さを「花冷え」といいますが、その後にも寒いのを「若葉冷え」というそうです。今年の神戸はその若葉冷えが続いたような気がしますが、みなさんのところではいかがでしたでしょうか。5月号の月報をお届けします。

           8月の済州島集会は、詳細が未定の部分があるのですが、案内は早い方がいいと思って掲載しました。現地の案内はおもに塚崎さんがしてくださいます。

                              飛田雄一 hida@ksyc.jp

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