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青丘文庫月報  2004年4月1日

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 「浴槽のフタ」   福井 譲

 ソウルに来て4年、時が過ぎるのは本当に早い。4年という期日が長いのかについては、もちろん状況によって異なる。しかしオリンピックやワールドカップ、選挙といったものが4年おきに行われていることを考えると、決して短いとは言えないだろう。その4年もの間生活をしていると、旅行などの短期間の滞在とは異なる経験も多くなる。

 国費留学生には、ソウル市内の某所に専用の寄宿舎が用意されていた。ここで私の入居した「一人部屋」は家賃がそれなりに高い分、室内にはトイレのほか「浴槽」も設置されていた。周知の通り、学生用の宿舎で「浴槽」が付いているのは、韓国では珍しいことである。

 ところがこの寄宿舎、給湯時間に制限があった。朝は6時から8時30分まで、夜は20時30分から24時までと1日に計6時間となっていた。その頃、起床後に入浴する習慣であった私としては、この給湯時間のシステムではかなりの難点があった。単に給湯時間が「短い」だけなのではない。「早い」のである。超夜形人間、朝早起きするのは至難の技である。一般の方からすれば贅沢(を通り越して単なるワガママ)な話であるが、不慣れな留学生活に参り始めていた当時の私にとり、「朝寝」「朝湯」は至福の時であった。したがって、朝8時半に給湯が終了するのは厳しい条件である。何とか解決をしなければならない「死活問題」なのである。

 もちろんこれへの解決策は一つ、一旦早目に起床して予め浴槽にお湯を張っておくことである。そのためには当然、フタが必要となる。そこである日、この「浴槽のフタ」を求めに出かけた。あの程度の大きさなら一目で分かるだろうとタカを括っていたのだが、実際に店々を回ってみると、意外にも見つけることができない。思い当たる雑貨屋、金物屋、ひいては地下鉄に乗って「Eマート」(ソウルでは有名なホームセンター)まで足を伸ばした。しかしあの規模の店内を探しても、お目当ての「浴槽のフタ」はどこにも見当たらない。疲労困憊と不満で、その日は退散することとした。

 別の日、近所の雑貨屋を訪れてみた。当時はまだ韓国語に不慣れであったため、予め辞書で単語「浴槽」「フタ」を確認し、発音の予行練習もふまえた「乗り込み」であった。店内に入り、気合を入れて店のアジュンマに問い掛けた。

「あのー、浴槽のフタ、あります?」

「何だって??」

「いや、だから浴槽のフタ・・」

・・通じない。単語が間違えていたのであろうか? あるいは発音が間違っていたのであろうか? 再度問い掛ける。やはり同じ反応。説明をしても、どうしても理解してもらえない。

外国語を話す時の悲しい性、通じない場合には異常に不安を感じてしまう。スゴスゴとその場を退散し、部屋に戻って辞書を再確認する。「「浴槽」「フタ」・・、なんだ合ってんじゃねーかよ」。私には何ら間違いはない。気を取り直して、再度店を訪れる。

 でも、やっぱりダメ。四苦八苦して意思疎通を図ったのち、ついに店のアジュンマが一言、「浴槽にフタなんかあるの?」。

 ここまで書けば、既にお気づきかもしれない。韓国は基本的に、毎日浴槽にお湯を溜めて入浴する習慣はない。通常はシャワーで済まし、週末などに「沐浴湯」を訪れるというパターンである。そのため自宅の「浴槽」に「フタ」をする必要はなく、したがって「浴槽のフタ」なるものも存在しない。私の発話で個々の単語は通じていたとしても、全体の意味(文脈)は理解されなかった。「浴槽」と「フタ」の間に意味的な関係が存在しなかったのである。

ところ変われば習慣も変わる。そして時に「構造」自体も変わるのだ。単語個々の意味が通じることと文脈が通じるのは、また別の問題なのである。その背後に、文化的要素が強く関わっていることは言うまでもない。韓国では「浴槽のフタ」を使用しないという「発見」とともに、外国語生活では「語彙力」が全てでないということを、改めて痛感させられた出来事であった。

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<第257回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2004年1月11日)>

大阪朝鮮詩人集団機関誌『ヂンダレ』をめぐって  

神戸大学国際文化学部 宇野田 尚哉

 昨秋,神戸大学附属図書館国際・教養系図書室の書庫で,製本された『ヂンダレ』第16〜19号を偶然見つけた.コンピューターには登録されておらず,検索してもヒットしない資料である.あらためて調べてみると,『ヂンダレ』は,元同人金時鐘(1929〜)や梁石日(1936〜)の著作を通じてその名を広く知られた詩誌であるにもかかわらず,ほかの公共閲覧機関には所蔵がなく,容易に見ることができるのは『在日朝鮮人関係資料集成〈戦後編〉』第10巻所収の第12号・第20号のみであることがわかった.そこで,資料の紹介も兼ねて中間報告的な内容の話をさせていただいたのが,今回の報告である.

 まずこの資料が同図書室に所蔵されることになった経緯を紹介しておくと,この資料は,新島繁(本名野上巌.1901〜1957)から寄贈されたものである.新島は,戦前はプロ科や唯研,戦後は自由懇話会や民科に属して左翼文化運動を担った詩人・思想家で,50代半ばで亡くなる前の2年間ほど,神戸大学に勤務していた.彼と台湾人・中国人・朝鮮人との関わりについては,『民主朝鮮』第25号(1949年1・2月号)所載の「大陸人群像―私の忘れ得ぬ人々―」に詳しい.大阪朝鮮詩人集団から新島に贈られた『ヂンダレ』には,公開合評会の「お知らせ」も挟まっていた.新島が実際に参加したかどうかは不明だが….

 大阪朝鮮詩人集団機関誌『ヂンダレ』は,朝鮮戦争下で在日朝鮮人運動が困難を極めた時期(1953年2月)に創刊され,のちには路線転換にともなう政治的激動に翻弄されるなか組織的・政治的批判の焦点となり,第20号で途絶した(1958年10月).もともと同誌創刊の際には,組織化されていない文学青年たちを糾合するという政治的意図が強く働いていたことを考えると,同誌同人のなかから文学する者としての自覚に立った主体的発言が生まれてきて組織との軋轢を生ぜしめるに至ったという経緯は,ある有力同人の後年の回顧の言葉の通り,「歴史の皮肉」(鄭仁「ヂンダレのころ」1977)というべきであろう.第18号所載の金時鐘の論説「盲と蛇の押問答―意識の定型化と詩を中心に―」と詩「大阪総連」は,そのような軋轢の頂点である.

 ところで,第16号所載の「小野十三郎先生訪問記」には,次のような一節がある.「私たちヂンダレが今一番悩みとなついているのは母国語で詩を書けない事なんですが,会員の殆んどが日本で生まれ日本で育つた為に詩の発想も日本語でしか発想できない状態です」.文学する者としての自覚は,その自覚が深ければ深いほどより強く,その根幹にある言葉の問題において,〈二世〉という問題につきあたる.この観点からすると,『ヂンダレ』途絶の直前にその中心的担い手であった金時鐘が発表した論説「第二世文学論―若き朝鮮詩人の痛み―」(1958年6月)は,もっと注目されてしかるべきであろう.だが,「新芽のような二世文学よ起れ!」という言葉で結ばれるこの論説の問題提起は,在日朝鮮人運動が日本人の運動から分離し本国との関係を強めつつあった当時の情勢のなかでは,あまりに先駆的でありすぎたのである.

 近年,ポストコロニアル批評の観点からの在日朝鮮人文学論が盛んになりつつあるように思われる.たしかに在日朝鮮人文学はそのような観点からの批評の恰好の対象ではあるだろう.しかしながら,私自身は,『ヂンダレ』同人が直面せざるをえなかった〈悩み〉や〈痛み〉の深さの前で立ちすくむようにしてしか,それに言及することができない.はやりの観点から対象を消費するというのとは異なるどのような関わり方が『ヂンダレ』に対してありうるのか.私にはわからないままである.

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<第258回在日朝鮮人運動史研究会関西部会(2004年2月8日)>

和泉市と堺市の境界に位置する光明池工事と朝鮮人労働者 三宅美千子

 和泉市と堺市の境界に位置する人工の灌漑用池「光明池」の工事は、導水路工事を含めると1930年代の一大プロジェクトであった。1995年、和泉市民を中心に「和泉市における在日朝鮮人の歴史を知る会」が発足し、歴史の掘りおこし作業がはじまった。光明池本堤防西岸にある石碑は、「光明池」工事で犠牲になった朝鮮人労働者を慰める為に建立したものと判明し、1999年には、和泉市によって「光明池朝鮮人労働者の慰霊碑」との銘板も設置されている。毎年10月の第3日曜日には、在日コリアン・日本人・行政がいっしょになって祭祀(チェサ)が行われるが、今年は第8回の慰霊祭を迎える。最近では、細々と聞き取り調査を少人数だが継続してきたのが事実である。工事関係者の遺族を訪ねて韓国大邱市訪問も2回実現し、さらに和泉市史編さん事務局による史料「光明融和会会則」の発掘もあった。調査開始から8年が経過し、冊子「和泉市における在日コリアンの歴史(戦前編)」中にまとめた。瀬戸内気候で干ばつに悩む旧泉北郡で1928年に泉北耕地整理組合が結成され光明池築造を要望、1931年から5ヵ年かけて築造工事が府営事業として行われたのである。槇尾川上流から水を取り入れ、山の谷間を堰き止めた光明池に貯水し、現在の堺市、高石市、泉大津市、和泉市に農業用水を供給している。規模は甲子園球場の9倍と言われ、外周8`、水深24m、本堤防は350m・高さ26m、副堤防は150m・高さ15m、当時の耕地面積1700ha、府下でも屈指の人工池である。つるはしとトロッコを使っての工事は危険を伴った。当時の新聞資料、特高資料、聞き取り調査によって多い時には約300人からの朝鮮人労働者が就労し、事故で亡くなった人もあり賃金未払い、飯場の家賃撤廃を要求しての労働争議、「泉北光明会」の存在も明らかになった。「光明池」や、もう一方で調べてきた地元の炭坑「横山炭坑」で犠牲になった朝鮮人労働者を悲しむ「アイゴー、アイゴー」という声が聞こえた事実を忘れてはならないと思う。光明池工事の犠牲者の人数が「12〜13人」と言う証言から調査が進んでいないので具体的な人数を調べるのが今後の最大の課題である。1940年に竣工した光明池に「行ってこい、帰ってこい」と出征兵士の無事を祈り密かに鯉をはなした光明池のことも今こそ伝えていきたい。又、今では耕地面積も減少し和泉市では水道水の4分の1近くを光明池に依存する状況である。

 中河由希夫さんは、当時の朝鮮人民族・労働運動をめぐる状況について報告した。朝鮮人労働者の争議が「泉州一般労働組合」の指導で起こったことなど詳細は、これも今後の課題である。今回の報告内容について『和泉市における在日コリアンの歴史』(協力価格500円)を参照して頂ければと思う。

 

●青丘文庫研究会のご案内●

4月11日が中央図書館休館日のため18日に開催します。ご注意ください。

 

第260回在日朝鮮人運動史研究会関西部会

4月18日(日)午後3時〜5時

「石原都知事の『韓国併合総意論』を検証する(仮題)  金慶海

 

第224回朝鮮近現代史研究会

4月18日(日)午後1時〜3時

「「創氏改名」における差異化のベクトル」 水野直樹

 

【今後の研究会の予定】

5月例会は、下記合同研究会とします。6月より通常の第2日曜日にもどります。

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●日本史研究会 五月例会(合同例会)●

<パネルディスカッション>

「在日朝鮮人史研究の現在(いま)を考える」

・日時 五月二三日(日) 午後一時〜五時

・会場 コープ・イン・京都(大学生協京都会館)

(京都市中京区柳馬場蛸薬師上る井筒屋町、阪急「烏丸」駅、地下鉄「四条」駅より徒歩約一〇分。京阪「四条」駅より徒歩約一五分。)

・報 告 坂本 悠一氏(九州国際大学)「「日本帝国」における人の移動と朝鮮人」

     外村 大氏(早稲田大学非常勤講師)「 未 定 」

    コーディネータ 水野 直樹氏(京都大学人文科学研究所)

(共催)朝鮮史研究会関西部会、在日朝鮮人運動史、研究会関西部会(青丘文庫)

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2004年6月13日(日)在日・石黒由章、近現代史、未定、7月は11日。

※研究会は基本的に毎月第2日曜日午後1〜5時に開きます。報告希望者は、飛田または水野までご連絡ください。

 

【月報の巻頭エッセーの予定】

5月号以降は、藤井たけし、藤永壮、堀内稔、堀添伸一郎、本間千景、松田利彦、水野直樹、文貞愛、森川展昭、山田寛人、横山篤夫、李景a。よろしくお願いします。締め切りは前月の10日です。

 

<編集後記>

2004年度(4月〜)の購読料3000円、図書購入費募金2000円、在日会費5000円を郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>でお願いします。

      六甲の桜は満開です。みなさんのところはいかがでしょうか?

      「神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会(代表・安井三吉)」という長い名前の会は、神戸の捕虜収容所で2年3カ月を過ごしたジョン・レインさんの手記を出版し、記念会に招待しました。彼はスピーチの中で「我々は、のちに広島や長崎の人たちがこの悲惨な戦争をすこしでもはやく終わらせるための犠牲となったことも知りました。これら2都市の人々の命は、我々捕虜の命を救ったのです」と話されていました。スピーチは、http://www.ksyc.jp/kobeport/johnspeech-j.htmに、手記(神戸学生青年センター出版部)も是非、お読みください。(飛田、hida@ksyc.jp)

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