青丘文庫月報・166号・2002月1月1日

図書室 〒650-0017 神戸市中央区楠町7-2-1 神戸市立中央図書館内
TEL 078-371-3351相談専用TEL 078-341-6737
編集人 〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内
飛田雄一 TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878
郵便振替<00970−0−68837 青丘文庫月報>年間購読料3000円
※ 他に、青丘文庫図書購入費として2000円/年をお願いします。
ホームページ http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/sb.html

●青丘文庫研究会のご案内●

第204回 朝鮮近現代史研究会
2002年1月13日(日)午後3〜5時
テーマ:「播磨造船所への強制連行ー済州島での調査についてー」
報告者:伊地知紀子

第236回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
1月13日(日)午後1〜3時
テーマ:「日本人教師の在日朝鮮人認識を考える」
報告者:佐藤典子

会場:青丘文庫(神戸市立中央図書館内)

<巻頭エッセー>
「東学農民革命国際学術大会」参加訪韓記   坂本悠一

 やや旧聞に属するが、昨年の5月31日〜6月3日韓国全州市で開催された「東学農民革命国際学術大会」に参加してきた。某大学の非常勤講師控室で毎週顔を会わせる徐勝氏から強く進められ、ソウルで個人的な所用もあったので、言葉の不安を感じながらも二度目の訪韓を決めた。実は私の韓国行きは1999年6月、神戸学生青年センターが主催した「韓国民草ツアー」で「東学農民革命」関係史跡を巡ったのが最初であり、この時のツアコンは飛田さんであった。
 さて今回の学術大会は、「東学農民革命」百周年にあたった1994-95年を契機とする「農民革命」参加者=殉難者の復権運動と、光州事件以降の韓国政治の民主化を背景とした近現代史の見直しという環境のもとで、全州市の「東学農民革命記念事業会」が主催したもので、韓国政府・全羅北道・全州市当局の全面的な後援を受けて開催され、マスコミでも大きく報道された。大会全体のプログラムは、@シンポジウム、Aフィールドワーク、Bその他の文化行事に分かれるが、開会当日の農民軍の全州入城再現パーフォーマンスや「たいまつ行進」(私も農民軍の白装束を着けて参加した)、市役所前広場でのイベントなど、趣向をこらした市民参加型のプログラムが含まれていた。また、3回にわたるフィールドワークは、農民軍の足跡のほぼ全行程をカバーする充実したもので、朴孟沫教授(霊山圓佛教大学校)の心を込めたガイドが印象的であった。
 シンポジウムは「東学農民革命」をテーマとした初めての国際学術討論ということであり、日本(約80名)、中国、台湾などを含め(注目された北朝鮮からは不参加)200名以上の研究者が参加した。まず基調講演(鄭昌烈「東学農民革命研究の昨日・今日・明日」)では、1930年代から現在に至る日本・植民地期朝鮮・韓国における学術的研究を総括し、その問題点を浮き彫りにしたものであった。第1部「東学農民革命と東アジア国際秩序の変化」(報告3本)では、19世紀後期のウェスタンインパクトを契機とした中国華夷秩序の動揺と日本の帝国主義化という国際環境が取り上げられ、朝鮮における農民運動のもつ反封建・反侵略の性格の内実が論じられた(中国「太平天国革命」との比較を論じた第3部の王暁秋報告は、むしろこのセッションのテーマに属する)。第2−1部「東学農民革命が夢みた世界」(報告4本)の李真栄報告は、民衆運動や政治活動などアカデミックな世界の外における言説の潮流を克明にサーヴェイしたものであった。その他、農民軍の思考・行動、東学教団との関係、女性の参加などが検討され、農民革命のもつ「近代性」と「反近代性」の相克が問題となった。第3部「東学農民革命における21世紀的継承戦略」(報告2本)では、記念造形物の描く歴史像の変遷にかんする報告を受けて、農民革命の「変革的精神」を今後の韓国民主化と日韓民衆連帯にどのように生かしていくのかが、現代韓国における「地域主義」克服の課題を含めて討論された。最後に、日本の「つくる会」歴史教科書の検定合格を憂慮する趣旨の国際共同声明が採択された。以上のシンポジウム全体を通じて、日本から(6名)を含む全報告者の予稿の翻訳、3カ国語の同時通訳、司会者の議事進行など、準備の行き届いた運営であることが感じられた。期間中韓国の研究者たちと親交を深めることができたことも大きな収穫であった。なお会場のホテル滞在中は、藤永さんとご夫人ならびに同室の茶谷十六氏に何かと通訳のお世話になったことに感謝している。
 今回の韓国行きでは、大阪からの団体参加組には同行せず、行き帰り初めての一人旅であった。以下はその顛末の点描。大会前々日の5月29日早朝、福岡からのビートルに乗船した。釜山港まで鉄道の切符を届けてくれた旅行社のアガシのキムチの臭いで韓国を体感。竜頭山公園に登って冷麺の昼食後、地下鉄で釜山駅へ。届けてもらった大田までのセマウル号切符に加えて、翌日乗車の大田→全州のムグンファ号切符を買おうとしたら、釜山→大田の切符も発券されてしまった。窓口のアジュモニには日本語が通じない、パニック!思わず「you are mistake!」と叫んでしまい、後は筆談で切り抜ける。2階の改札口を通ろうとしたら、「セマウル号は1階、下へ降りなさい」と英語で指示される。ようやく憧れのセマウル号に乗ろうとホームへ、不覚にも韓国の鉄道が1435mmの標準軌間であることを知らなかった。特急列車の「特室」で快適な一時を過ごし大田で下車、タクシーで儒城温泉へ。ここは一昨年に続き2度目、勝手知った「垢擦り」の後「しゃぶしゃぶ」に舌鼓を打つ。翌朝は、湖南線の西大田駅からムグンファ号に乗車、ローカル線の雰囲気を楽しんで、なんとか目的地の全州へ到着した。
 蛇足であるが、帰路はカナダに居る長男の婚約者(韓国女性)の両親とソウルで「面接」した。京都の大学に長年留学後帰国した鄭安基君に通訳を依頼し、特級ホテルのレストランで韓定食をご馳走になる。不肖の息子はまた学生の分際(彼女は名門女子大卒業)故、その旨丁重にお詫び申し上げたところ、「韓国では結婚は男性の意思がすべてです」との有り難いお返事であった。緊張のため酔いが醒めてしまい、終了後再会を祝して鄭君と更に杯を重ねる。翌日は、明知大学校に洪鐘n教授を訪ねるが、反対方向の地下鉄に乗ってしまい遅刻。教授の退職記念論集の打ち合わせをして、昨夜の特級ホテルから出るバスで仁川空港へ。初めての空港の広さにまごつきながらも、免税店で好物の「梨橿酒」を買って、関西空港へと離陸した。韓国旅行のためには、片言のハングルよりも英会話の練習をした方が近道ということを実感した珍道中であった。

第201回 朝鮮近現代史研究会10月14日(日)
朝鮮開国直後にあった六つの事件 金慶海
 1876年2月に、日本の強要によって結ばされた不平等な江華島条約(=朝・日修好條規)によって、朝鮮は開国した。この江華島条約を補足して同年の8月に、朝・日修好條規附録も結ばされた。それらの条約では、釜山などの朝鮮の三港の開港が強要された。最初は1876年釜山が、ついで1880年に元山が、1883年に仁川がそれぞれ開港させられた。仁川開港以前にあった六つの事件について簡単に述べる。
1.釜山港の開港 − 日本の朝鮮への侵略拠点を確保
 釜山港は、1876年12月に開港した。そこには約十万坪の日本人占有の居留地が建設さた。1877年初旬、ここで通商市開場式が行われたが、初代公使になる花房義質が祝辞を述べ、ついで出品者を代表して大倉喜八郎は「虎穴に入らざれば虎子を得ず」と演説したように、釜山には日本の資本家から一攫千金を夢見た浪人らまでの様々な日本人が押し寄せてきた。
 治安維持の名目で巡査が派遣され、徐々に増加して事件直前には百人にも達した。渋沢が経営する第一銀行の支店が設置され、1879年には釜山在住の日本人数は一千人にも達した。

2.豆毛鎭事件−朝鮮の課税権を廃止させる
 釜山居留地郊外の豆毛鎮で1878年10月、朝鮮政府は居留地出入りの物品(その主なものは米など)に課税を実施した。物品への課税はその国の自主権に属する問題だが、日本側にとっては一大事。無税だった物品に課税されたから、その分だけ日本商人らの儲けがガタヘリ。
 日本側は、上述の二つの条約には課税問題が含まれていないとして、その廃止圧力をかけた。居留民を動員して「小戦争」を行わせる一方で、軍艦を派遣して朝鮮を威嚇。これらの威嚇行為に屈して朝鮮政府は同年の11月、課税を廃止した。
3.東莱事件−日本人らの武器携帯を許す
 東莱府は、釜山をも管轄する官庁所在地。1879年4月、花房公使らを乗せた軍艦二艘が釜山の来る。水兵を上陸させてこの東莱府に入城させては、「縦横に徘徊」する。
 この東莱府には日本人の入城が特例として認められていたが、しかし、日本軍が武器を持っての入城は、やはり上記の諸条約には明白にはなっていなかった。この条約上の盲点をついての日本側の行動であった。当然、この挑発行為に住民らが反発して投石などして抵抗。もちろん、日本軍側も発砲した。これらの日本側の強硬な態度に屈した朝鮮政府は、日本人らが朝鮮国内で武器を携帯することを許す。
4.伊藤がスパイ行為−以後、日本軍の諜報活動を黙認
 1881年5月、陸軍参謀本部の伊藤高次が朝鮮服に変装して、内陸部の実状視察のため朝鮮人らを従えて、までに達した。ここは、釜山からは約20キロも北方の小さな村だが、もちろん、日本人が立ち入ってはならないところだった。ここで伊藤の変装がばれて、朝鮮の官憲に逮捕され東莱府に護送されたが、連絡を受けた釜山の日本警察にもらい受けされた。
 可哀想なのは朝鮮人で、ここまで案内したとして某は斬殺の刑に処せられたことだった。伊藤の条約違反行為はウヤムヤに処理され、その後にもつづいたスパイ行為は見て見ぬふりを朝鮮政府はするようになった。
5.亀浦事件−日本人の不正な商いの横行を黙認する契機を与える
 亀浦は、釜山から約16キロ北にある小さな村で、日本人が行ってはいけないところ。ここに、末永ら4人が出かけて朝鮮商人と金貸しの問題でトラブルを起こし、二人の日本人が負傷。このことを聞き知った釜山居留民らは、これを日本に対する侮辱と揚げ足をとって、三百余人が武器を持って押しかけようとしたが、日本警察に阻止される。
 この件は、いかにも喧嘩両成敗の形で処理されたが、以後も、日本商人らの不正な商業活動は後をたたなかった。
6.安辺事件−日本人らの行動範囲を拡大させようとしたが
 1880年5月、元山港が開港した。安辺はこの港から南方約12キロの地点にある都市で、もちろん、日本人が立ち入ってはならないところだった。
 元山開港2年後の1882年3月、大倉組の児玉ら五人がこの安辺に向けて“遊猟”に出かけたのが事件の発端になった。当然のように、安辺府の直ぐ手前で住民らの抵抗を受けた。大乱闘が起こり、日本人の蓮元が死亡し児玉は負傷した。逃げ帰った日本人らが元山の日本警察に救援を願い出たが、自らの不法を知っていたので断る。
 この事件の処理に日本側が頭を痛めてた1882年7月、ソウルで朝鮮軍人の暴動が起こる。この暴動で、日本人らが死傷する。「禍転じて福をなす」の策を日本側は取った。即ち1882年8月、済物浦条約が結ばされたが、この条約で、日本人らの行動範囲を開港場から20キロに拡大させ、朝鮮国内を外交官以外の日本人も自由に行えるようにさせた。

第202回 朝鮮近現代史研究会11月11日(日)
植民地期朝鮮の鉱山における中国人労働者  堀内  稔
 現在の韓国における華僑の法的地位および彼らをとりまく環境は、在日朝鮮人以上に非常に厳しいといわれる。一刻も早く処遇の改善が必要とされるが、そのためにも華僑が韓国に定住していった経緯や背景について、ある程度押さえておかなければならないだろう。その一環として、植民地期の中国人鉱山労働者に焦点をあてて報告した。
 1930年末の商業を除く中国人労働者の職業別人口は、農業6,340、土工1,756、木工1,652、石工1,307、各種工場871、鉱業815、運搬716の順となっていて、鉱山労働者は決して多い方ではない。最も多い農業従事者は、主に蔬菜を栽培していた。また、木工や石工は、ある意味で技術職人であるのに対し、土木労働者や鉱山労働者のほとんどは単純肉体労働者で、朝鮮人労働者と競合する部分が大きかった。
 資料は1920年代偏るが、鉱山における中国人労働者の数は840−1,400人の間で推移しており、鉱山労働者全体に占める比率は5%前後で推移した。
 朝鮮の鉱山数は、1931年時点で213カ所。このうち従業員数10−50人の鉱山が半分以上を占め、千人以上は5鉱山にすぎなかった。概して零細規模の鉱山経営であるが、こうした鉱山の内、中国人労働者が比較的多かったのは兼二浦鉄山(黄海道)、雲山金山(平安北道)、大楡洞鉱山(平安北道)で、いずれも300人を越える中国人が付近の集落に暮らしていた。
 鉱山労働には採鉱夫、選鉱夫、運搬夫、雑役などの職種がある。中国人労働者がどの職種に多かったかを明示する資料はないが、「(中国人労働者)は体力強健で勤勉であるが、熟練を要する作業には不適当である。運搬作業の如き単純にして只勤勉であればいゝ作業には甚だ能率的である」とする記録があることから、運搬夫が多かったのではないかと推測される。
 賃金は、職種によって異なるが、中国人は朝鮮人とほぼ同等とされる。また、資料によっては朝鮮人よりも高いとするものもある。一般の土木労働の場合、中国人は朝鮮人より賃金は安くてよく働くというのが定評であるが、鉱山労働では朝鮮人と同等若しくは高い賃金というのは、どう解釈すればいいのか。なお、鉱夫の平均月収は有煙炭山鉱山で26円19銭、無煙炭山・金属鉱山で22円余、鉄山で21であった。鉄山が低いのは、ほとんどが露天掘りで採鉱に技術が必要なかったからという。
 労働災害については1923年の資料しかない。これによると、人数から見る災害率そのものは朝鮮人と変わらないが、死者が42人中7人で、異常に率が高いのが目立つ。危険な場所での作業が多かったことを物語るものであろう。
 労働争議は1920年までの資料しかないが、中国人が参加したと推定されるものに、1917年9月の三菱鉄山(黄海道)、1918年4月の三菱鉄山、同年4月と5月の兼二浦鉄山、同年9月の三菱製鉄所の争議がある(三菱製鉄所は兼二浦鉄山のすぐ近くに位置し、兼二浦鉄山の鉄鉱を原料に銑鉄を生産していた)。また、中国人の参加が確認されるものに、1919年3月の雲山金鉱、同年11月の三菱製鉄所、1920年4月および5月の鶏林炭鉱(会寧)がある。
 1918年兼二浦の町で、朝鮮人労働者と中国人労働者の大衝突事件があった。原因は平素からの互いの不仲とされるが、なぜ不仲なのかは明らかでない。おそらく民族的感情にもとづくものであろう。新聞記事によると、料理屋でのささいな口論から中国人労働者500人、朝鮮人労働者千人がツルハシなどをもって対峙し、互いに朝鮮料理店や中国人の家屋を壊すなど大騒擾になったというもの。ただ、この騒擾の被害者を見ると、中国人側は即死者3人、重傷者8人、軽傷者27人を出したのに対し、朝鮮人側は軽傷者わずかに1人だったことから、騒擾の中身がある程度推測できる。

【今後の研究会の予定】
2002年2月10日(日、在日・梁仁実、近現代史・未定)

【月報の巻頭エッセーの予定】
2002年2月号(伊地知紀子)、以降は、田部、飛田、李昇Y、本間、藤永、佐野、梁永厚、文貞愛、藤井幸之助、金河元、高木、森川。※締め切りは前月の15日です。よろしくお願いします。

編集後記

青丘文庫月報一覧神戸学生青年センター