青丘文庫月報・159号・2001月5月9日

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●青丘文庫研究会ご案内●

第197回 朝鮮近現代史研究会
5月13日(日)午後3〜5時
テーマ: 「 延辺の土地改革について」
報告者:金森 襄作

第228回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
5月13日(日)午後1〜3時
テーマ:「朝鮮人強制連行の実数について」
報告者:飛田 雄一
会場:青丘文庫(神戸市立中央図書館内、地図参照)

巻頭エッセー

失われた石碑 堀内 稔

 JR京橋駅の南口から寝屋川沿いに東へ歩いて約4分ほどのところに、戦前の朝鮮人が建てた石碑があった。ガラス工場に働く朝鮮人労働者たちが、そこの社長に恩義を感じて建てた顕彰碑であった。「あった」と過去形で書いたのは、残念なことにごく最近、この石碑は取り壊されたのか、なくなってしまったからである。

亡くなった金英達さんからこの石碑について聞いたのは、4年ほど前。京橋近くに住む梁永厚先生からこの石碑の存在を知り、詳しい調査をしたのだという。当時彼は、朝鮮人ゆかりの石造物に興味を持ち、青丘文庫の研究会でも「石碑・石塔・石像が語る在日朝鮮人史・日朝関係史−関西における石造史跡の探訪・調査あれこれ」といった報告をしている。
 英達さんの調査によると、碑は120pほどの石碑(昭和3年11月)と石の玉垣(昭和4年4月)から成っており、現在の工場建物(大和照明株式会社)建設時に隅っこに追いやられたようで、石碑と工場外壁の間隔は17pしかなく、裏面の碑文がよく見えないという。
 彼からこの石碑のことを初めて聞いたとき、私が調べていた新聞記事にそのような話があったのを思い出し、英達さんに記事のコピーをあげた。まさに新聞記事は、石碑が建てられたいきさつを報道したものであったと、英達さんは喜んでくれた。
 新聞記事によるとこの石碑は、玉井硝子工場に3年以上働く朝鮮人35名が、工場主の鬼城繁太郎が温情を持って職工に遇したことに恩義を感じ、朝鮮の習慣にしたがって謝恩のために建てたものとある。1928年12月6日付の『毎日新聞』の記事である。 今年3月、京橋の近くで行われている研究会(在韓華僑問題研究会、金英達さんが中心になって昨年3月に発足)の帰り道で、ふとこの石碑のことを思い出し、一度見ておきたいと梁永厚先生に案内を頼んだ。工場に近づくと、建物全体が白いシートで被われいるのが見えた。建物を解体するのだろうかと不吉な予感がしたが、案のじょう石碑があった場所にはがれきが残っているだけ。石碑は失われていた。
 今となっては、金英達さんが調査した資料のみが、石碑が存在した証拠となってしまった。

第195回 朝鮮近現代史研究会
2001年3月11日(日)
李承晩と吉田茂〜李承晩政権の対日政策〜 李景a

李承晩と吉田茂のイメージ

 李承晩ラインを設定し、日本漁船を次々と拿捕したため、李承晩の日本での評判はすこぶる悪い。韓国では「親日派と結託した独裁者」のイメージが定着しているものの、一部に「不屈の抗日の闘士、共産主義と戦った先見の明のある政治家、卓越した国際感覚で国を再建し、守護した愛国者」との評価もある。
 一方、吉田茂に関しては、彼が約7年間にわたり首相として戦後復興に貢献した、また日本の国際社会への復帰を成し遂げた業績が評価されている。ダレスが執拗に日本の再軍備を迫ったのに対し、経済的理由を盾に激しく抵抗したこと、非軍備で経済回復に専念して今日の繁栄をもたらしたという「吉田神話」である。ところが最近の研究では、当時のアメリカの最大の狙いは日本再軍備ではなく、米軍の日本駐留であったことを彼が見抜けなかったこと、そして吉田が米国側の要求に折れる形でひそかに再軍備を行う意思を伝えていたことが判明している。
李承晩ラインの誕生の背景
 
第二次大戦後すぐ、占領軍は日本周辺の海域にマッカーサーラインと呼ぶ漁業規制区域を設けた。日本漁船による乱獲を防ぐためだが、それは他方、韓国漁業を保護する一方、50年6月に朝鮮戦争が起きてからは韓国の「国家安全保障」の側面も持っていた。ところが、51年9月のサンフランシスコ講和条約で撤廃されることになってのである。
 周知のように、当初韓国も講和条約には「連合国」の一員として参加することを希望し、米国もその実現を模索していた。しかし米国は、英国と吉田政権の強い反対に遭い、連合国とは日本と戦争をしていた国または交戦状態にあった国であり、韓国は異なる法的地位にあったとの判断で、韓国は単なる「非公式に」、「客として」のみに、講和会議に参加が認められることとなった。
 結局日韓交渉は、サンフランシスコ講和条約の妥結を目前にして一気に軌道に乗ったことになる。その背景には、韓国側にとっては懸案である日本に対する賠償問題などを解決する展望か開かれないことにたいする焦りがあったといえよう。
 李承晩大統領は、51年6月駐韓アメリカ大使に対日交渉の斡旋を要求した。そこで講和会議後、GHQの斡旋の下に、51年10月、東京で日韓会談の予備会談が開かれた。だが、日本側は会談自体に乗り気でなかった。日本側としては日韓交渉の必要性は十分認識していたものの、韓国側の認識とはことなり、まずは在日朝鮮人の処遇問題をどうするかで話し合いをする必要性に迫られていた程度であり、漁業問題でも講和条約の発効待ちといった姿勢がうかがえた。
 そこで、52年1月李承晩大統領が「平和線」と命名し、海洋主権宣言をしたことになる。それは従来の日本の周りに敷かれていたマッカーサーラインが、講和条約の発効(52年4月28日)で撤廃されると韓国の水産資源が枯渇すことを懸念した韓国政府が、一方的に宣言したものであった。日本側にしてみれば、漁民を保護するにはどうしても韓国側との交渉は避けられないという緊急性があって、西日本漁業界の圧力背に血相を変えて「日韓交渉」のテーブルについたことになる。52年2月に第一回目の本会談がスタートし、議題としては財産請求権の取り扱い、漁業問題と在日朝鮮人問題が中心で討議を始めたが、会談は、まもなく進まなくなってしまった。

第228回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
2001年2月18日(日)
関西普通学堂の設立−戦前尼崎の朝鮮人児童教育の一断面 堀内 稔

 関西普通学堂は、戦前(1934年)、武庫村守部(現尼崎市)につくられた朝鮮人児童のみを収容する学校である。この学堂の教育については、小野寺逸也「1940年前後における在日朝鮮人問題の一斑−とくに協和教育との関連において」(『朝鮮研究』59号所収、1967年)に詳しい。ただ、その設立の経過については「関西普通学堂の設立と朝鮮人の民族的要求との関係は、今後の課題とするほかない」と記述されており、明らかにされていない。そこで、当時の新聞記事資料を中心にして、関西普通学堂の設立に焦点をあてて報告した。
 関西普通学堂設立の背景となったのは、武庫村守部地区の急激な人口の増加である。その増加のほとんどは朝鮮人だった。守部地区の朝鮮人の多くは、武庫川の砂利採取で生活していたが、一様に貧しく、村に税金を納めてはいなかった。児童の激増により学校の校舎不足が深刻となった武庫村では、父兄の特別負担金の負担能力欠如を理由に、朝鮮人児童の入学を許可せず締め出しを図った。1934年春の時点で、学齢期に達した朝鮮人児童約50名が不就学となった。
 これに対して同地区の融和団体である内鮮相助会は、村当局にこれらの児童をなんとか就学させてほしいと要望した。おそらくギリギリの折衝が行われたものと推測される。その結果、内鮮相助会の事務所内に武庫小学校の分教室を設け、教師は武庫小学校から交代で派遣することが決定され、1934年4月26日にその開校式が行われた。この分教室が関西普通学堂である。当初村営であったが、同年7月経営を村から切り離し、委員会を設けて運営することになった。委員会は武庫村村長や内鮮相助会の会長、武庫村の朝鮮人議員などで構成され、武庫村および兵庫県内鮮協会からの補助金で学校を運営した。
 関西普通学堂は、当初は学校といっても名ばかりのお粗末な施設であったが、翌35年には校舎が新築され、さらに36年、39年には校舎の増築が行われた。また39年には武庫尋常高等小学校分教場、41年には武庫国民小学校分教場と改称された。戦後は、在日朝鮮人連盟の管理のもとで朝鮮人初級学校として民族教育が行われたが、48年4月の学校閉鎖指令により、翌49年武庫小学校分校となり、66年に廃止された。
 小野寺論文では「関西普通学堂は分離教育であり、日本人の差別意識がそれを推進した」ことが強調されている。結果的にはそうなったが、設立経過から見て当初からそこまで意図的であったかどうかは疑問である。

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「兵庫のなかの朝鮮」編集委員会(兵庫県外教・兵庫朝鮮関係研究会・むくげの会)編著
兵庫のなかの朝鮮〜歩いて知る朝鮮と日本の歴史〜
A5、291頁、本体価格 1800円、明石書店
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横山 篤夫
戦時下の社会〜大阪の一隅から〜
A5、364頁、本体価格 7900円、岩田書店
※ 図書館に是非、推薦図書に申請を。個人購入の場合は、著者割り引きで6800円(送料込み)。FAX 03-3326-6788 岩田書店に「横山の紹介で」と。代金は、後日、郵便振替で‥‥。

【今後の研究会の予定】

2001年6月10 日(日)趙誠倫(朝鮮近現代史)、朴洪圭(在日)

7月8日、8月はお休み。原則として、毎月第2日曜日です。

月報の巻頭エッセー

2001年6月号(出水)、7月号以降、姜在彦、浅田、金森、金慶海、坂本、伊地知、田部、飛田、李昇Y、本間、藤永、佐野、梁永厚、文貞愛、藤井幸之助、金河元、高木、森川

※締め切りは前月の15日です。よろしくお願いします。

●講演会のご案内●
神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会勉強会
テーマ:「三菱財閥と『強制連行』」 講師:兵庫朝鮮関係研究会 金慶海氏
6月14日(木)午後6時30分、於/神戸学生青年センター、参加費:500円

●編集後記●

(飛田雄一 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

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