青丘文庫月報・156号・2001月1月1日

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●青丘文庫研究会のご案内●
第194回 朝鮮近現代史研究会
1月14日(日)午後3〜5時
テーマ: 「朝鮮総督府編纂『訂正修身書』について−過渡期の教育方針に関する一考察−」
報告者:本間千景

第228回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
1月14日(日)午後1〜3時
テーマ:「北但馬大地震(1925)と朝鮮人」
報告者:金慶海

会場:青丘文庫(神戸市立中央図書館内)

巻頭エッセイ
「朝鮮民族運動史研究会」の「朝鮮近現代史研究会」への改称について
水野直樹

 1981年4月に発足した「朝鮮民族運動史研究会」は、これまで20年間にわたってほぼ毎月研究会を開いてきましたが、2001年1月からは名称を変更して「朝鮮近現代史研究会」として運営することになりました。
 京都大学人文科学研究所での朝鮮近代史に関する共同研究班(班長・飯沼二郎氏)に参加したメンバーの一部が、民族運動史にテーマを限定した研究会を続けるという趣旨で、「朝鮮民族運動史研究会」(代表・姜在彦氏)を発足させたのが、この研究会の始まりでした。当時、神戸・鷹取駅近くのビルの最上階にあった青丘文庫が会場でしたが、その後、須磨寺にある韓ル曦氏の自宅マンション内に青丘文庫が移転し、研究会もそちらで開くようになりました。
 研究会は、朝鮮近現代史の中でもバランスのとれた実証的研究が不充分であった民族運動史の研究を活性化させたいという意図をもって運営されてきました。そのために、毎月の研究会は、参加者それぞれのテーマに沿った個別研究報告と、運動史上の重要人物の経歴・思想などを検討するサブ報告との2本立てで行なわれました。それらの成果は『朝鮮民族運動史研究』(第10号まで発行)に掲載され、各方面から高い評価を受けたものと自負しています。
 1988年からは水野が代表を引き継いで研究会を続けましたが、同じ青丘文庫で毎月の例会を開いている在日朝鮮人運動史研究会とメンバーが重なることから、同じ日に2つの研究会を行なうこととしました。記録を見ると、1992年7月から同日開催を始めたことがわかります。
 その間、韓国で民族運動史に関する研究が急速に盛んになり、資料の発掘・公開も進みました。1970年代まではタブーとされた社会主義運動・共産主義運動についての研究も行なわれ、我々の研究に大きな刺激を与える論文、著作も発表されました。他方で、ソ連その他社会主義諸国の崩壊と変革、冷戦の終焉という新たな状況が生まれたことは、朝鮮の民族運動史研究にも無関係ではありませんでした。
 さらに、近年、研究者・市民の問題意識が大きく変化したことも否定できません。ナショナリズムや近代国民国家そのものを批判的にとらえようとする見方があらわれている中で、民族運動史の分野に限定した研究会を維持することが困難になってきている、というのが現在の状況です。
 「朝鮮民族運動史研究会」発足から20年の今、そして21世紀を迎えた今、新たな気持ちで朝鮮近現代史の意味を考え、その時代の諸相を明らかにすることが、課題となっていると言えます。もちろんその中で展開された民族運動の歴史的意味も、正確かつ充分に評価されねばならないと考えています。
 以上のような理由から、「朝鮮民族運動史研究会」を「朝鮮近現代史研究会」に名称を改めることとしました。朝鮮の近現代をさまざまな側面から考察することを趣旨として、専門研究者だけでなく市民・学生など、関心を持つ人々なら誰でも参加できる研究会として運営していくつもりです。
 多くの方々のご参加とご声援をお願いする次第です。

第192回 朝鮮民族運動史研究会
2000年11月12日(日)
1910年代の朝鮮人風俗営業――日本公娼制度の定着過程―― 藤永 壯

 朝鮮における公娼制度は、植民地統治初期の1916年3月31日に公布された警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)により、初めて全土で統一的に実施された。この規則が制定されるまでの風俗営業は、開港後の領事館法令を引き継いだ保護国期の理事庁法令、大韓帝国側が制定した諸法令、そして「併合」後に警務総監部や各道警務部が定めた法令などによって取り締まられていた。しかし日本人と朝鮮人で適用する法令が異なったり、理事庁法令の施行地域が行政区域と一致しないなどの理由から、その統一をはかる必要があったのである。
 この規則は標題が示す通り、それまで「国家の体面」を慮って日本が法令用語としての使用を避けてきた、「貸座敷」と「娼妓」に対する管理法規であった。これらを法制上、「料理店」「飲食店」や「芸妓」「酌婦」などから分離し、その位相を実態に合わせることによって、公権力による管理買売春の形式と内容を明確にしたのである。さらにこの規則の制定には、立ち遅れていた朝鮮人風俗営業に対する取締を強化するねらいもあったものと思われる。ここで娼妓の年齢下限は日本「内地」より1歳低い17歳以上に抑えられ、また自由廃業や文書閲覧・物件所持などの自由に関する権利保障規定も内地法令に比べると不充分であった。
 ところで朝鮮の伝統的な風俗営業の形態を記した代表的な文献である李能和『朝鮮解語花史』(1927年)は、日本語の「遊女」に相当する朝鮮女性の総称として「蝎甫」(カルボ)を用い、これを妓生(妓女、一牌)、殷勤者(隠勤子、二牌)、搭仰謀利(三牌)、花娘遊女、女社堂牌、色酒家(酌婦)などに分類している。(ただし「蝎甫」は、「妓生」と対照させて「売春婦」一般の意味で使用する例のほうが、むしろ多いようである。)
 日本は朝鮮の植民地統治に着手した当初から、「民風改善」政策の一環として殷勤者や色酒家を取り締まり、また妻への売春強要や妓生の「密売淫」なども警察当局により摘発されていた。ただし1910年代前半に目立つ女性売買の形態は、騙した女性を「妻」にさせるために売りとばす事例であり、「蝎甫」「娼妓」などに売る事例も存在はするものの、いまだ後者が前者を凌駕する状況にはなかったと思われる。
 しかし1910年代半ば以降になると、伝統的な風俗営業の再編成が進展していく。保護国期に設立されたソウルの妓生組合は、1910年代半ばには「券番」(日本の「検番」から採った名称か?)へと衣替えしていった。例えば1907年にソウル出身妓生の組合として設立された広橋組合(のち漢城組合)が1914年には漢城券番となり、また三牌の組合である新彰組合も、同じく1914年に京和券番と名称を変えた。とくに後者は「妓生」の枠組み自体がこの時期に変化したことを意味しているが、これは「妓生」の「低俗化」を示唆すると同時に、「妓生」から除外された殷勤者(二牌)、色酒家などを「蝎甫」「娼妓」として囲い込んでいく結果をもたらしたように思われる。
 「貸座敷娼妓取締規則」制定後の1910年代後半に娼妓は急増するが、これは第1次世界大戦中の好景気に起因するものと思われ、時期を同じくして娼妓に売られるケースが増加し、「妻」として売られるケースは減少していった。1919年、ソウルでは市街地に散在していた朝鮮人娼妓が、当時「東新地」と呼ばれた地区に一斉移転させられ、朝鮮人営業者の遊廓が形成されるに至った。以上のような諸現象から、1910年代末には日本の買売春システムが植民地朝鮮に定着したものと、ひとまず想定できそうである。

第227回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
2000年11月12日(日)
「戦後在日朝鮮人の民族運動−アイデンティティーと国籍」 片田孫朝日

これまで、在日朝鮮人関係の複数の書籍や研究書が、日本国籍の取得者が、在日朝鮮人社会の中で「裏切り者」と言われたり、白眼視される傾向があると指摘してきました。実際、私の身近にいた2世の「帰化」者も、日本社会だけでなく、在日朝鮮人の民族運動の中で、辛い思いをしたことがあると話していたことがありました。どうして、そういうことが生じてしまったのかということについて、今回は、1970年代の在日朝鮮人の民族運動の世界に限定し、その理念(第一の目的)や世界観、帰属意識に焦点を当てて、社会学の方法と用語で発表を行いました。最近では、日本の帰化制度における同化強制の問題から、帰化者が、在日社会で「日本人」と見なされたり、差別される側面があるという指摘がありますが、少なくとも、在日朝鮮人の民族運動、特にいわゆる「祖国志向」の意識・運動では、もっと別の理由から、「帰化」者の苦境が生じたと考えられます。
 総連や民団などの「祖国志向」の意識・運動では、自分たちを「祖国」(朝鮮あるいは、南北のいずれかの国家)に属し、言い換えれば、朝鮮半島のネイション(主権的な民族共同体や国民共同体)に所属するという世界観が強力でした。この場合、祖国の外部にいる在日集団は、「在日僑胞」や「居留民団」の言葉に伺えるように、寄留民(ディアスポラ)としてイメージされます。そして、第一の課題として、ネイションの統一や発展を志向する(遠隔地の)ナショナリズムを展開していたと、単純化して捉えることができるでしょう。このような世界観では、国籍(外国人登録証や韓国の旅券)は、自分たちが、祖国のネイションに属することを示すものと受け止められました。そのため、国籍の変更は、「祖国や民族を捨てる」ような許さない行為として認識され、「帰化」者は「民族の裏切り者」と見なされる傾向があったのだと思われます。日本が旧宗主国であり、依然として在日朝鮮人や朝鮮民族を抑圧する国家であったことも当時「裏切り」という言葉が頻繁に使われた原因でしょう。
 他方、1970年代に現れた「在日志向」の意識・運動は、在日集団を第一に日本やその地域社会の構成員・生活者と捉え、その生活改善と民族的な自己肯定を目指す(同時期のアメリカなどの)エスニック運動に類似しています。(発表の時には、論じられませんでしたが、)この場合には、日本国籍取得は、「在日韓国・朝鮮人」という制度的に抑圧されている集団からの個人的な抜け駆けである点と、帰化制度の問題もあって事実上、日本社会に文化的に同化していく行為であった点で、許されない行為であったと思われます。しかしそれでも、ディアスポラ/ナショナリズムの運動に比べれば、国籍の意味は、相対的に小さくなる傾向があったと考えています。もちろん、「ディアスポラ」か「エスニシティ」かは2者択一ではなく、当時の国籍の意味、「帰化」者の苦境の原因を考えるために参照する類型・モデルです。
 
以上のような発表内容は、来年1月に提出する卒論の一部になる予定です。今回の発表や論文では扱えませんでしたが、いずれ、戦後日本の単一民族国家観と旧植民地出身者からの国籍剥奪の関係や、日本の帰化行政との関係を、最近の外国での「市民権」研究も参照して、社会学的に議論したいと考えています。

【今後の研究会の予定】
2001年2月11 日(日) 張允植(近現代史)、未定(在日)

月報の巻頭エッセー
2001年2月号(田部)、3月号(本間)、4月号(藤永)、5月号(佐野)、6月号(梁永厚)、7月号(文貞愛)、9月号(藤井)、10月号(金河元)、11月号(高木)、12月号(森川) ※ 前月の20日までに原稿を飛田までお寄せ下さい。

むくげの会30周年記念&論文集出版記念会のパーティのご案内
日時:2001年2月17日(土)午後6時
会場:神戸学生青年センター (078)851-2760
詳細は、学生センター内 むくげの会まで。

編集後記

(飛田雄一 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

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