青丘文庫月報・153号・2000月10月1日

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●青丘文庫研究会のご案内●
第191回 朝鮮民族運動史研究会
10月8日(日)午後1〜3時
テーマ: 「赴戦江水電と中国人労働者」
報告者:堀内 稔

第226回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
10月8日(日)午後3〜5時
テーマ:「李朝末期に来日した朝鮮女性たち」
報告者:金 慶 海

会場:青丘文庫(神戸市立中央図書館内)

【今後の研究会の予定】
11月12日(日) 藤永壮(民族)、片田孫朝日(在日)
12月10日(日) 本間千景(民族)、伊地知紀子(在日) & 忘年会

巻頭エッセイ

モスクワで見たオリンピック開会式    水野直樹

 9月5日から16日までモスクワに滞在した。一昨年秋に朝鮮関係のコミンテルン文書を調査するために訪れてから数えると、4度目の滞在である。
 コミンテルン文書を保管しているロシア国立社会政治史文書館は、相変わらず週3日しか閲覧ができないし、文書ファイルも1日に10位しか出してくれないため、調査の成果ははかばかしいものではなかった。
 滞在中、2度ほど朝鮮料理のレストランに行った。昨年9月にロシア=朝鮮外交史を研究している女性研究者に連れて行ってもらった店である。経営者は韓国人らしく、料理もだいたい韓国風だが、ウェイトレスをしているのはロシア人女性と朝鮮人女性である。
 「朝鮮人女性」と書いたが実は中国の朝鮮族女性で、出身をきくと「延辺の和龍」と言っていた。去年働いていたウェイターの青年は牡丹江(黒龍江省)出身と言っていたから、中国東北地方の各地から朝鮮族の若者がロシアに働きに来ているようである。レストランに食事に来るのは、ほとんどが韓国人のビジネスマン/ビジネスウーマンらしく、ロシア人を連れて来て商談をしている人もいる。
 このように書くと、ロシアと韓国の距離は相当近くなっているように思われるかもしれない。しかし、両国の距離はまだまだ遠いと感じさせる経験をした。オリンピック開会式のテレビ放送である。
 南北朝鮮の選手団が合同で入場するというニュースを聞いたので、開会式をぜひ見たいと思っていた。テレビの中継放送はちょうど昼の時間で、文書館の閲覧日にでもあったので諦めたが、夜には再放送があったので、それを見ることにした。
 しかし、再放送は編集し直したものなので、すべての国の選手団入場が映るわけではない。それでも南北の合同入場は大ニュースだから、放送されるに決まっていると思って、テレビ画面を見つめた。
 中国、フランスなど安保理常任理事国の選手団が次々に登場する。カザフスタン選手団が登場したので、そろそろ「Korea」かと思ったら、いきなりロシアに飛んでしまったのである。常任理事国に名乗りをあげている日本も、和解・統一に向うかと見える南北朝鮮も無視されたかっこうで、まったく肩すかしである。
 ロシアにとってやはり朝鮮は遠いのかと思いながら放送の続きを見ていたら、番組スポンサーの一つが韓国の家電メーカー・サムソン(三星)であることに気づいて、いっそう複雑な気分になった。朝鮮にとって「近くて遠い国」は、実はロシアなのかもしれない。

第189回 朝鮮民族運動史研究会
2000年7月9日(日)
大韓民国建国初期における反共体制の構築過程
−農村統制政策を中心に− 藤井たけし

 大韓民国の体制の特徴を反共によって説明するのは常識に属するほどに一般的であるが、その形成過程については実は研究が多くはない。一般的には朝鮮戦争によるものとして語られがちな反共体制の形成について、単独政権樹立(西暦1948年8月)から朝鮮戦争勃発(1950年6月)までの二年足らずの期間に注目することで「外部の脅威」のせいにされがちな反共体制が実際には誰を対象としていたのかを考えるのがここでの目的である。とりわけ最近ようやく語られはじめた朝鮮戦争前後に韓国軍と警察によって引き起こされた民間人虐殺の問題を考える時、この問題は重要であると考える。そしてまた、その際の対象を主として農村・農民に置く。これはもちろん当時人口の大部分が農村にいたということもあるが、脱植民地化のプロセスとしての大韓民国の建国が正統性を調達するには農地改革による農民の支持獲得が必要であり、とりわけ北朝鮮において農地改革が成功裡に進められていたため、農村政策は重要である他なかったためである。
 そしてこれは日帝期、米軍政期と続いた農民の抵抗が、50年代にはほとんど見られなくなったという現象をどのように解釈するのかという問題でもある。一般に農民の保守化としてとして語られるこの現象を私は抵抗の資源を提供してきた村落共同体の解体によるものと捉え、それを反共体制の基盤と見る。以下、もう少し具体的に述べたい。
 日本による植民地支配、特に農村支配の特徴は(既存の)村落秩序を通してなされた点にある。当初は地主を、30年代以降には「中堅人物」等を通してなされたという差異は存在するものの、「村落」は支配と抵抗のせめぎあう場として存在し続けた。そして総督府による支配からは相対的な自律性を保ち続けた村落の共同性こそが解放後の人民委員会の基礎となったと考えられる。しかし、米軍政の採った経済政策は地主−小作間の対立を助長する結果をもたらし、政治的な弾圧ともあいまって村落の自治的な機能は失われていった。また北朝鮮での土地改革の実施に大きな影響を受けることによって、南の農民運動の側においても農村の共同性よりは階級に基盤した貧農を主体とする運動を展開することとなり、従来の農民運動が持っていた潜在力を自ら喪失していくこととなったのである。
 米軍政のあとを受けて誕生した李承晩政権にとっても農村問題は重要な案件であった。憲法にまで明記された土地改革の実施は必要不可欠であり、また都市での食糧問題の解決のためには農村での生産増強のための政策も求められていた。農林部を中心とした農政学者/官僚は農業協同組合を通した農村の再編を提起していたが、国会できちんとした議論もされないままに農協案は葬り去られ、逆に日帝時代から農村支配機構の一つであった大韓金融組合連合会に農村団体が統合されることによって中央集権的な農村支配体制が作り出された。李承晩政権初期における農村政策は農民の体制内化を促すものであるというよりはむしろ農村金融や配給の統制を通じた一方的な支配であったということができる。
 そして、そのうえで重要な問題は、それにも関わらず農民たちの抵抗がなぜ起こらなかったのか、である。その原因として、既に形成されていた準戦時体制の問題、即ち軍・警による暴力の問題を同時に考察する必要がある。が、この点について今回の報告では問題提起をする次元にとどまった。また暴力による支配を(結果的に)補完する存在として教会があったのではないか、という問題提起もおこなったが、この点についても後日を期したい。
 質疑の過程で指摘された問題として、解放後の問題を論じる際に生じる植民地支配の相対化をどのようにクリアすべきかという点が挙げられる。私は未だこれに答えあぐねているが、解放後の歴史過程を植民地支配に還元することもなく、また切り離してしまうのでもない認識枠の提示は今後ますます重要なものとなっていくだろう。この課題に共に取り組む人が一人でも多くなることを願っています。

第224回 在日朝鮮人運動史研究会関西部会
2000年7月9日(日)
大韓帝国の王子の“人質留学”     金慶海
 1907年12月、韓国の王子が日本に“留学”した。その実は、当時の朝鮮と日本のドロドロした裏面史の犠牲者だった。言い換えれば、この王子は強制連行の第一号に当る。
 王子のなまえは李垠[リウン]で、11歳の時のこと。父親は退位させられた第26代国王・高宗。この年の6月にハ−グ密使事件が発生。高宗は、その責任を伊藤博文朝鮮統監に取らされて7月、強制的に王位を退位させられる。この王様にも少しは骨ぷしがあったようだ。それでも安心のいかない伊藤は、もう二度と韓国の国王に反日的行動を取らさせないための苦肉策として、王位継承者にさせた王子(当時は皇太子と呼んでいた)を人質に盗って、日本に連れてきた。日本への“留学”という形にして、彼の魂までも“日本化”させようと企んでのことだった。
 王子を日本に連行する直前、「決して泣かぬ、決して急に帰りたいなどと申すことはいたさぬ」と伊藤は王子に誓わせた(【大阪朝日新聞】1910.11/3)。だからだろう、 彼の会見記事なり顔写真では笑顔が聞こえない。ひどいのは、母親・厳妃の死目にも合えされずだった。伊藤はんも、母親が亡くなった時、忙しくて合ってないんだ。
 1907年12月、伊藤が王子を連行して上京する途中に、神戸の景勝地・舞子にある萬亀樓に立ち寄ったときのこと。有頂天になって酔っ払っている伊藤は、自分の墓標を長白山頂(=白頭山頂と同じ。南北共に朝鮮民族はこの地を聖地と崇めている)に建てろ、それはこの王子がするだろう、と豪言する。本当に、白頭山に建てたんだろうか?逆のことだが、朝鮮の国王の墓を富士山頂に建てたら、西尾大先生らはどう書いたんだろう?
 伊藤が暗殺された“悲報”を聞いて。「驚きのあまり椅子を飛び離れる」、暗殺者が朝鮮人と聞いて「なに我が国人とや」とだけ語る(【朝日】1909.10/27)。それ以上の反応の記事が探せなんだ。見落しではなさそう。なぜ、王子の反応がそれだけか?
 王子に日本魂を入れ込む作業は、中々巧くいかなんだようだ。こんなことらもあった。 そのひとつ。1909年5月、名古屋であった共進会に連れていかれた。そこに小学生が 書いた「…三韓征討と記せる韓国地図のありしを御覧ありて忽ち俯かせられたるは恐懼の極みなりき…」(【大阪朝日新聞】1909.5/11)。
 その二つ目。1910年7月(翌月には韓国が名実共に植民地化されるが)、関西と中国 地方への“遊学”が組まれた。その旅行先の一つに、鳥取市の図書館の閲覧があった。ここには、19世紀初めに漂着した朝鮮漁民たちが書き記した感謝文が掲げられていたが、その朝鮮文字を見つけて自ら近寄りスラスラと読み下す。連行されてすでに何年かが過ぎたが、いまだに朝鮮魂は抜け切れなんだ証拠かな。
 大歴史家の西尾幹二大先生がお書きになられた「国民の歴史」を大きな興味をもって読んだ。おもろい。他国の王子を強制連行して迫害を加えたことは一言一句も書いていない。歴史上で仮定法はないが、かりに、日本の皇太子が韓国に強制連行されて上記のようなハメにあったら、大先生、あなたは「国民の歴史」を書き換える?それとも、沈黙?大博識家の大先生にしては、チト手落ちかな。ああ、そうだ、知らなんだのだ!大先生様、ぜひこれを読んでね。でも、こんな見方はしないか。相手の痛みを知らんもん。

案内@/学生センター・朝鮮史セミナー/高銀先生(詩人)講演会 「統一への想い−平壤での南北頂上会談に参加して−」(通訳/兪澄子氏)/10月21日(土)午後3時/神戸学生青年センター/参加費 1000円(税別)

案内A/神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者・追悼会/10月15日(日)午後0時/モニュメント前 090-9050-8227/(神戸市兵庫区会下山公園東)/追悼集会後、事故現場のひとつ烏原貯水池公園で焼肉の会/申込み(078)851-2760飛田

月報の巻頭エッセー

11月号(坂本悠一)、12月号(李景a)、2001年1月号(出水薫)、 ※ 前月の20日までに原稿を飛田までお寄せ下さい。

編集後記

(飛田雄一 rokko@po.hyogo-iic.ne.jp)

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