日本軍による中国女性への性暴力を明らかにする証言集会 in 神戸
万愛花さんたちから証言を聞く
1998年11月3日(火) 於/神戸学生青年センター

 

川口和子(弁護士)

 1998年10月30日に提訴した。提訴のいきさつは、1996年8月二回目の来日をした万愛花さんの話を聞いたものたちが、1996年10月に山西省を訪れ、日本軍による性被害の聞き取り調査をした。1997年3月には二回目の訪中調査で河東村も訪ねた。日本軍のやったことは、その時から50年も60年も経ってなお村に深い傷を残していることが明らかになっている。訴訟は、被害者の名誉回復とおばあさんたちがいまも困難な生活を強いられている事情に照らして、10人の原告に対する日本政府の公式謝罪と損害賠償を要求しているものだ。日本政府からの謝罪がないために、おばあさんたちは「一方的な犠牲者」であることをあいまいにされてきた。

<冤枉><伸冤>(平反)

 弁護士にとっての裁判の意義は、同じ性暴力でもそれぞれの場合によって相当に違いがある。いろんな特色をもった性暴力を明らかにしていくことにあると思っている。 

趙潤梅 1925年西烟鎮南村生まれ。1942年4月2日、日本兵が村に入り家財を奪い、隣人を刺殺し養父母を刺傷した。その日河東砲台の窰洞に連行され、40日間以上毎日強姦輪姦を受けた。養父母は傷が原因で翌年相次いで死亡。被害後、体が腫れ不妊となる。30歳過ぎに生理が止まる。

 73歳、山西省盂県。1941年4月はじめの朝、西烟から河東村の砲台へ拉致された。拉致される前には隣の人が殺されたのを目撃して、養父母のところへ逃げようとしていたところだった。日本軍が跡を追ってきて、養母は私をかばおうとして頭を切られ、養父も首に刀を受けた。血が止まらずに、鶏の皮を貼れば止まると教えられその通りにしてみた。その場で私は二人の日本兵から強姦され、顔も腫れるまでぶたれた。父の牛やロバも奪われ、そのロバの上に縛りつけられて河東村の砲台まで連れて行かれた。砲台の下には大きな窰洞があり、その中に煉瓦でこしらえたベッドがあった。昼間は5〜6人、夜は十数人がかわるがわるやってきては強姦された。身体を焼かれるなどの虐待も受け、40日間くらいそこに監禁されていた。父は家具を売って二百元をつくり、日本兵が薬が欲しいというので薬を差し出したりして、やっと私は解放された。

 川口 ベッドはどんなものだったか?

 趙  木の棒を並べた上に草などを敷いて、その上に人が寝る。

 川口 窰洞は?

 趙  奥行き・幅が2mくらい。高さは人がギリギリは入れるくらいの高さで、昼間もまっ暗だった。

 川口 40日間に1回でも外に出してもらったか?

 趙  出してくれた、大便・オシッコのとき。見張りはついてきた。

 川口 当時は正月の前後で冬の寒い時期だったが、厚着はできたのか?

 趙  窰洞に入れられたときは布団が1枚だけ、着ているものはぼろぼろ。着の身着のままで連れてこられた。

 川口 食事は?

 趙  日に1回のときも、2回・3回のときもあった。

 川口 身体は大丈夫だったか?

 趙  下半身は毎日痛くてたまらなかった。ああいうベッドだから毎日傷がついた。養父のカネで家に戻ってからも、半年間は病気で寝たままだった。半年が過ぎてやっと元気になった。さらに1年半して結婚した。6年間一緒にいたが子どもができず離縁され、2回目の結婚でもできなかったので、諦めて他人の子をもらって育てた。日本軍が強姦して私の人生をこわし、子どもができない身体にした。日本政府に謝罪と賠償を要求する。

楊秀蓮  南二僕の養女。南二僕 1922年西烟鎮南頭村生まれ。1941年日本軍の命令で維持会が女性を提供させられたが、その一人。バカ隊長と呼ばれた渡辺の「専用」として長期に強姦された。男児を産まされたが死亡。家族3人は対日協力者との誤解により村人から殺される。解放後対日協力者として裁かれ入獄。その後病苦で自殺。

 盂県の西烟鎮から来た。母の冤罪を知って名誉を回復してほしい。母は、1942年はじめ南頭村が日本軍に襲われ、村が焼かれたり殺されたりする中で日本兵から強姦された。渡辺班長が村にやってきて、焼いて殺して、母を家で強姦した。渡辺は(人殺ししかできない)アホ班長と呼ばれていた。そのときは母の両親・祖母も殴られ、肉が裂けたりしている。母は山の砲台に連れて行かれたが、昼間は河東村の庭で、夜になると砲台まで連れて帰り渡辺から強姦・虐待を受けつづけていた。渡辺の子ができたが、出産の前後も渡辺は強姦をやめなかった。祖父は土地・家を売ってカネをつくり娘を助けようとしたが、それで家庭は滅茶苦茶になり犠牲者も出た。日本軍の通訳をやっている人間に銀貨で七百元を渡したが、それでも助けることはできなかった。母が日本軍に協力している。恥ずかしいということで、祖母の甥が人を雇って祖母を殺した。誤解をはらしたい。すべては、日本鬼子が中国でこういうことをして冤罪をつくった。

 1年半にわたって渡辺の専属みたいに強姦されつづけていたが、子どもを抱えて逃げだした。しかし苗機(なえはた?)が追ってきて強く揉み合っているときに、子どもは死んでしまった。母は連れ戻されまた2カ月間強姦されていた。母は17歳違いの人と結婚させられることになっていたが、何回か会ってもうちょっとで結婚というときに渡辺に捕まった。結婚することになっていた男は、対日協力が恥ずかしいと離縁した(結婚を取り止めた)。母は苗機に捕まって2カ月経ったあとまた逃げた。苗機は捜しまわりある村に母の弟がいることを知って、弟を馬のうしろにくくりつけて見せしめのために村を引きまわした。維持会の人がおねがいしたので、1周したところで弟を放した。苗機は母が捕まらないので怒って、祖父の家に火を放って焼いてしまった。

 日本軍が去ったあと、母は祖母の家に戻って生活するようになった。しかし病弱でずっとお腹が痛くてたまらない。子どももできない身体になった。それで1964年には私を養女にしてくれた。しかし1968年にお腹の痛さに耐えかねて自殺した。

 母は解放後に人民政府から調べられ、2年間投獄された。まちがった裁判も恨むが、それも日本軍がつくった冤罪だ。母が死ぬ前父に「子どもが大きくなれば、冤罪をはらし名誉を回復してもらいたい」と言ったと聞いている。日本政府への要求は、母の墓の前で謝罪してほしい。名誉回復の努力をしてほしい。

万愛花 1929年内モンゴル生まれ。4歳で童養女息として盂県羊泉村に売られる。共産党児童団・党員。 1943年6月・8月・12月と3回日本軍に捕まり、盂県進圭社村の日本軍が駐在する民家に監禁される。3回とも強姦・拷問され、3回目には外の木に吊され気絶するまで殴打され、水をかけてまた殴られた。強姦・輪姦され、裸で冬の川に捨てられたが、近所の中国人に助けられた。

 3回目の来日になる。内モンゴル生まれで、4歳で童養女息(トンヤンシー)として山西省に売られてきた。13歳で児童団に入り、15歳で中国共産党に入党した(15歳までは童養女息で入党できなかったが、15歳でやっと入れた)。日本軍に捕まったのは、共産党の嫌疑をかけられたからだった。15歳の6月にはじめて捕まって、逃げたい一心で方法を捜し、1週間経たないうちに逃走した。日本軍に捕まったときは、家にカネがあればよいが貧乏な童養女息だったから助けにきてくれる人もないし、一人で考えた。6月ころ捕まって1週間で逃げ出し、7月には羊泉でまた捕まった。2回目も共産党の嫌疑をかけられた。このときも10日くらいかかって逃げた。1943年6月(旧暦)〜12月までに3回にわたって拉致監禁された。3回目も逃走したが、そのときのことは言いたくない。昔は身長も160pくらいで高く、身体も丈夫だった。切られたり、拷問をされて身体がこんなに小さくなった。3回の監禁生活で身体は滅茶苦茶にされた。悔しいのは、一生女性としての感情的な生活を送ったことがないことだ。解放後もまわりからは不思議な目で見られ、毎日が辛かった。4回目はどうしても捕まりたくないと、中国のほぼ半分を逃げまわる生活を送った。逃亡生活の中で日本軍が中国でいかに残虐なことをやったのかを見た。年寄りから子どもまで、殺して井戸に入れ石を投げ込むのを目撃した。

1992年にはじめて日本に来て現在こうやって裁判をしているが、日本政府がこうした事実を認めないからだ。どんなに時間が経っても罪は罪だから、政府もちゃんと謝罪してほしい。私が死んだら裁判ができないと思っているかもしれないが、親族などが訴訟をがんばるから早く認めてほしい。今回は3人で来たが、こんどはもっと大勢で来れると思う。1996年につづいて神戸は今回で2回目だ。

李貴明(盂県西烟鎮・農民/研究家)(略)

何清(山西省外事弁公室)(略)

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