第2回/神戸・南京をむすぶ会訪中団/報告集
南京・上海・瀋陽・撫順を訪ねて
1998.8.11〜18


1998.8.15 南京大虐殺記念館で

目次

発行に際して 飛田 雄一 4
<感想文>
第2回訪中を終えて 団長 佐藤 加恵 5
撫順・南京を訪ねて 小城 智子 6
中国を旅して思うこと 宮内 陽子 7
「幸存者」の思い 下崎 美津子 8
撫順での重い一日 小谷 美智子 10
「南京、現地に立つということ」 太田 光一 11
「自分たちが死んだ意味を伝えよ」 門永 三枝子 13
印象深い平頂山 門永 秀次 13
自分だけが、記憶に残すだけではいけないように思えました 由 佳世子 15
「侵華日軍大屠殺遭難同胞紀念館」 竹林 寛賢 15
朝鮮独立運動の遺跡 in 上海 18
<証言>
撫順@崔 仁杰さん(撫順市戦犯管理所職員)19
撫順A楊 寶山さん(平頂山虐殺事件幸存者)21
撫順B莫 徳勝さん(平頂山虐殺事件幸存者)23
南京C曽 秀蘭さん(南京大虐殺事件幸存者)24
南京D傅 兆増さん(南京大虐殺事件幸存者)25
南京E邱 栄貴さん(南京大虐殺事件幸存者)27
スケジュール/記録 29
関連新聞記事
「核廃絶と共に加害を語るとき」(太田光一、「朝日新聞」投稿 98.9.3)32
「ひょうご随想/歴史のなかの“いま”」(飛田雄一、「朝日新聞」98.9.5)33
「神戸・南京をむすぶ会/大虐殺の跡地を訪ね報告会」(「神戸新聞」98.9.20)34

 
南京、雨花台紀念碑

報告集発行に際して

神戸・南京をむすぶ会は、96年4月〜5月に神戸市王子ギャラリーで開かれた「丸木位里・俊とニューヨークの画家たちが描いた南京1937絵画展」の実行委員会が中心となって、97年2月27日に結成された市民運動グループです。昨年(1997年)8月、「南京大虐殺60ヵ年」に28名で初めて訪中し、今回が2回目の訪中です。

参加メンバーは、以下の14名です。

佐藤 加恵(団長) 飛田 雄一(秘書長) 林 伯 耀(副秘書長)
石黒 栄 太田 光一 小城 智子
小谷 美智子 下崎 美津子 竹林 寛賢
洪 浩 秀 由 佳世子 宮内 陽子
門永 三枝子 門永 秀次

日程および主な訪問先は、以下の通りです。詳しくは、29頁の「スケジュール/記録」をごらん下さい。

1日目(8月11日<火>) 撫順
2日目(8月12日<水>) 撫順(平頂山虐殺記念館、戦犯管理所)
3日目(8月13日<木>) 撫順 → 瀋陽
4日目(8月14日<金>) 瀋陽 → 南京(国際安全区、南京大学、ラーベ故居他)
5日目(8月15日<土>) 南京(南京大虐殺記念館)
6日目(8月16日<日>) 南京(東郊叢葬地、中山埠頭、煤炭港他)
7日目(8月17日<月>) 南京 → 上海(魯迅公園(旧虹口公園)、大韓民国臨時政府跡他)

8日目(8月18日<火>) 上海 → 関空

本報告集によって、私たちの旅の体験を多くの方々に知っていただき、そしてそのことが日中友好に寄与することを願っています。

 1998年9月25日 神戸・南京をむすぶ会事務局長 飛田雄一

第2回訪中を終えて/第2回訪中団々長/佐藤加恵

今年は諸般の事情があり、訪中は出来ないと思っていたが、代表の佐治先生が、8・15に日本にいないといけない理由があり、2回目の団長として行くことに決定した。

そして2度目の訪中団を組み、帰国した現在、益々この旅の重要さに気づかされている。現在の日本の状況をみると、あらゆる分野で世界的に自由化が迫られ、経済的にも行きづまっている今日、過去の侵略戦争の責任や賠償問題が、目前の危機状況の中で、後手後手になったり、無視に近い状態にされたりしないかという気がするのである。まさに「南京大虐殺はなかった」と表明する自由主義史観主義者達の思うつぼのような状況をつくられていくことが許せないと思っている。

昨年、第1回の訪中団では、中・高・大学生の若人たちと共に、南京大虐殺の歴史事実を知る旅をした。これからの平和な日本をつくり、ささえていく人達に、過去の歴史を正しく伝えていくことの意義を確認した。「この旅で若い人と共に学ぶ」ことが今回出来なかったことが残念であり、来年はぜひ、この点について強く再考し、早い目より準備をすすめていきたいと願っている。

今回の旅は東北地方の瀋陽、撫順へ行けたことは非常に喜ばしいことであった。平頂山惨殺遺址は小高い丘にあったが、9・18記念館(柳条湖事変のあった所)は私は湖のそばにあるものとばかり思っていた。そんな歴史の史実を知り、現在も生きてその時のことを語る人たちに、きのうのことのように語られることは、非常につらいことであるが、「深い意味での贖罪の旅」にふさわしいと思っている。上海・南京の36°C 〜38°Cの酷暑と違い少し涼しい街の様子といい、さすが広い囲土と多民族の国家(街のいたる所でハングル文字が見えた)なのだと感じた。団員が「さっきあんなに食べたのに、又、ついつい食べてしまう」と楽しみにしている中国料理の多彩なメニューと奥の深さと共に‥‥。

さらに来年も続けて行かなければと思うひとつの事がある。南京の国際安全区の中にあったラーベの故居が今も人が住む住宅となり、史料としての保存ができない状態である。ぜひ「歴史の事実」をつぶさに体験したラーベとその家を忘れてはならないし、史実として残してもらう努力を私達もすべきではないか、と強く要望すべく「神戸・南京をむすぶ会」も力をあわせていきたい。次回に再会する時には、それをぜひ形にしていきたいものである。

撫順、南京を訪れて/小城  智子

昨年は、高校以来の念願だった南京大虐殺の地を訪れ、日本軍の蛮行の凄まじさに、またそれを支えた日本からの慰安袋の子ども達の手紙に、戦前戦中の教育の責任を感じた。謝罪とは何だろうと思いながら、改めて、南京大虐殺について、万人坑について、何冊かの本を読んでみた。「戦争だったんだから仕方ない」と語られがちだが、それにしても、すさまじい日本兵の行為について、一つ一つ事実と背景を探って行かねば、残虐な日本人からは抜けられないように思えてくる。何度も聞いた「日本鬼子」は、私たちの父や周囲の穏やかな老人ではないかという重苦しさも消えない。

今年は、初期の万人坑平頂山と中帰連の人々のいた撫順戦犯収容所も訪問する、ということにひかれ、6年生担任として広島へ修学旅行へ行くこともあり、もう1度参加することにした。

1931年9月18日柳条湖から満州事変と、日本の長い中国侵略戦争が始まり、それが、「満州国」建設と、成功したように見えたことが、日本の不幸の始まりのように思えてくる。1905年の日露戦争の結果得たのが、今回見た撫順炭鉱と鞍山製鉄所。40年間に約2億トンの石炭と7800トンの油母頁岩が日本に運ばれ、25万人から30万人の労働者が殺され、30カ所も万人坑ができたといわれる。露天掘りの広大な炭鉱見学の後、万人坑の一つ、畑に案内された。阿片患者もいたとか。中国各地にどれほどのこのような万人坑があるのだろうか。


草鞋峡記念碑(左)

平頂山殉難同胞遺骨館では、死んでも子どもをかばっている親の遺骨に対し、面子と差別感から皆殺しをし、隠そうとする日本軍の醜悪さが見えてくる。800軒の家と3000人の多くが(約2500人といわれる)抹殺されたのは、抗日ゲリラがその村を通ったというだけの理由なのだ。このような村民大虐殺は1932年9月遼寧省新賓県周辺で10カ所もあったという。14年間に記録のあるものだけで、100件も、という。証言される方の70年近くの歳月にもかかわらず、鮮明な記憶と憤り、長い苦しみを思うと、人間としての想像力の欠けた日本人の姿しか見えてこない。

撫順戦犯収容所の職員の方の話をうかがうと、当時の軍人が、どれ程人間らしい感情を持っていなかったか、自分のことしか考えていなかったか、が見えてくる。一方で、周恩来の、人間として尊重し、正しい歴史認識、正しく国際情勢を知る、という人間性を取り戻させようとする教育プログラムに、1950年当時の社会主義への自信と新しい理想の社会を創る自負を感じた。このおかげで、それまでたたき込まれてきた中国人蔑視の思想からようやく解放されたのかもしれない。中国帰還者連絡会の方々の活動に心打たれてきたが、このような反省の時がすべての日本軍と、戦争を支えた日本人に必要だったのではないか。「自分たちも被害者だった」と、「お互い様だ」と水に流してはいけなかったのだろう。

6年生の子ども達に、何を伝えられるだろうか。20世紀は、戦争と大虐殺の時代だった、とこの頃よく言われる。ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下は、アメリカの許せない戦争犯罪である。20万人を越える死者、何倍もの後遺症に苦しみ亡くなった人々に対し、戦争だから、仕方なかった、とは言えない。一人一人の暮らしに目を向けるとき、中国での日本侵略戦争の犠牲者に思いを馳せられるのではないか。子ども達といっしょに、事実を調べ、犠牲者や幸存者の声に耳を傾け、考えていきたい。人間としての、優しい温かい感情を育てられる暮らしと、真実を追求する姿勢も日頃から育っていないと、知識だけでは、難しいなあと、改めて思ってしまうが。


撫順戦犯管理所の入口

中国を旅して思うこと/宮内陽子

猛暑の中国で7泊8日の研修を終え、日本に帰ってきた。旅のこと、また、日本でのあれこれを夫と話していたら、次のようなことを聞いた。某大学教授がテレビで「江沢民も『きんだいちゅう』も靖国神社に詣でるべきである」と言ったんだそうである。中国から帰ったばかりだったので、余計にがっくりきてしまった。

 しかし、落ち着いて考えてみると、別に驚くほどのことではないのかもしれない。この日本では。一緒に訪中した人が言っていた。「皆さんと話をしていると、日本中の人たちが戦争責任を認め、平和を願っているように思ってしまうんですが、それは錯覚ですね。世の中の多くの人たちはそんなこと考えてもいないんです。私たちはごく少数者にすぎないんですね。」

その通り。いくらマスコミが「左」に傾いて戦争責任を語ろうと、それは8月15日前後のイベントにすぎず、学校でいかに「自虐史観」で歴史が教えられようと、受験戦争を前にすればその「知識」は吹っ飛んでしまう。この国を甘く見てはいけない。「皆さん」が多数者であれば、戦後補償の問題は、植民地同然の基地問題は、とっくに解決している筈だ。

 とはいえ、落ち込んでばかりもいられない。中国での見聞は落ち込む甘えを許さない。とりわけ平頂山で見た事は。累々と横たわる骸。それを掩う巨大な棺のような遺骨館。その中に足を踏み入れたとき、まるで事件の現場にいるかのような気持ちにさせられた。響きわたる機銃掃射の音、叫び声、飛び散る血や肉片。小指の太さのあばら骨、握りこぶしの大きさの頭骨。赤ん坊の小さな骸。

 それはそのまま広島の平和公園を独りで歩いていたときの感覚に繋がっていく。一瞬にして消えた町の死者や瓦礫の上に土盛りがされている。まだ掘り出されていない死者の差し伸べる手や呼ぶ声が足の裏に伝わってくるようだった。

 この死者たちは私に何を求めているのだろう。言うまでもなく彼らは「なぜこんな目に?」「二度と繰り返さないで!」「平和を!」「人間が人間として生きられる世を!」と私に訴ええているのだ。

 また、平頂山の出来事は、一時間機関銃を射ち続けた兵士のことも私に突き付けてくる。彼らは引き金を引くたびに人間であることを削ぎ落としていったのだ。そして彼ら自身、水漬く屍、草むす屍として大陸の果てで看取られることなく死んでいったのだ。

 にんげんはこのように生き、死んでいってはならない。中国であれ日本であれそれは同じだ。平頂山の、続いて訪れた南京での見聞は強く強く心に刻まれている。そして私に平和を創るために働くよう、おそらく一生呼びかけ続けるだろう。

 中国を侵略した、原爆を投下した精神構造、社会体制は冷戦の中で厳しく検証されないまま今も残されている。そしてそれは局地的に噴出し、または環境破壊という別の姿をとって私たちの未来に大きな影を落としている。しかし、たとえごく少数者であれ、希望をもって一歩を歩みだすことがひとをひとたらしめる。あの魯迅先生も言っているではないか。「希望は地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなればそれが道になるのだ」と。


九一八事変博物館(瀋陽、柳条湖)

「幸存者」の思い/下崎美津子

中国に着いてすぐに、撫順に行き、平頂山での惨案遺址を見学し、幸存者の方から、その時の虐殺の様子を聞きました。また、南京でも、大屠殺紀念館で、虐殺された人たちの遺骨の陳列や資料を見、幸存者の方から証言を聞きました。

 戦争というものを、普段身近に体験することなく生活している私は、人の命は何よりも大切にされるべきものだし、死というのは、非常に厳粛なものという意識で毎日を過ごしています。しかし、撫順や南京で見た遺骨は、幾重にも重なり、傷付けられた跡が残り、不自然に折り曲げられ、その中には小さな子どものものも混じっていました。

 南京では、捕虜や難民を、何百人、何千人という規模で虐殺していっていったということですが、その時の南京は、地獄のようなむごたらしい様相になっていたのだろうと思います。「殺す、強姦する、盗む、日本兵は、悪いことはすべてやっていた」との証言もあったし、「血が川のように流れていた」との証言もありました。 

 自分も命あって生きている同じ人間が、どうしてこのようなひどいことができたのでしょうか。しかも、これを実行したのは、ほんの数十年前の私たちの親や祖父母だったということを考えると、私たち日本人のやったことは、どう詫びようと許されることではありませんが、辛い目に遭われた人たちに、少なくとも、日本軍のやったことを明らかにし、誤りを認め、そして、日本という国を本当の平和を求める国にしていかなければならないという思いを強くします。そして、亡くなられた方には、慰霊の気持ちを持ち続けたいし、幸存者の方には、戦争で受けられた苦しみが少しでも薄らいで平安に生きていかれることをお祈りするばかりです。幸存者の方が、「虐殺はなかったと言う人がいて憤りを感じた」と言われていましたが、こんなことを言って、自分たちのやったことをあいまいにし、辛い目に遭われた人たちをさらに打ちのめすようなことは、絶対にやってはいけないことだと思います。

 日本では中国との友好ということはよく言われても、戦争の時に行われていたことの実態をきちんと認め合うということが、これまであまりできていなかったように思います。韓国に旅行した時には、韓国人の日本人に対する感情は厳しいのだろうという思いがあって、日本人であることで心が縮むような気分になったりしたのですが、中国に対しては、知らないことによって、加害者意識をそれほど強く感じることなくこれまで接してきたように思います。今回、通訳の人が、「日本人を前にして、幸存者の言葉を通訳する時に、初めのうちは、日本人に対して、まともに話をすることができなかった」と言われていたのを聞きましたが、私たち日本人は、日本人がやってきた事実を知り、生活を踏みにじられた中国の人たちの気持ちを心に感じながら、国と国との関係を作っていかなければならないと思います。

 
九一八事変博物館内に横たえられている旧日本軍作製の「柳条湖事変記念碑」


旧日本軍記念碑の説明版

撫順での重い一日/小谷 美智子

中国の大地は、緑に覆われていた。そして、そこには肌の色も髪の毛も体格も、私たちと少しも違わない、たくさんの人々が生活していることが、実感できた。

北にある撫順、審陽の都市ではレンガ造りの建物が目立った。建築途中の高層住宅もどうやら同じ造りだ。地震はおこらない地域なのだろうと、考えた。柳やポプラ(?)の葉陰にレンガの色が映える。自転車の前にリヤカーの荷台をくっつけて漕いでいる人の姿が目立つ。近くの農村からやってきたのだろう、馬やロバがスイカやウリを満載した荷車を引いている。純朴で働き者の家族が荷台で揺られていたりする。

 私たちの乗ったバスは、パトカーに先導され、警笛をしきりと鳴らしながら走った。

 かつて、この地にあって、加害者と被害者という悲しく申し訳のない歴史が刻まれていなければ、どんなに気が楽なことだろう。中国の交通事情とはいえ、私たちにこんな走り方が許されるのだろうか。まるで悠久の時の流れのままに、生活しているかにみえる彼らに対して、いつも私たちは、招かざるちんにゅう者にすぎないのではないか。

前を走っていたバスが止まり、どこにでもある農村の、道端に佇むひとりのおじいさんのまわりに、降り立った人々が集まっていく。この谷間も万人坑のひとつで、老工・阿片患者を多数埋めた場所だと説明をうけた。おじいさんは、当時の目撃者・曹徳裁さん(75歳)だ。近在から人々がよってきて、みているまに人垣ができる。

いましがた、800体の人骨が累々と横たわる平頂山惨案遺址紀念館へ行ってきたばかりだ。ここを訪ねる日本人は、年間650人ほどだという。

この日の夜、平頂山事件の幸存者お二人から話を聞くことができた。

1932年9月16日、仲秋の名月の夜、抗日義勇軍が平頂山をとおって北へ逃げたというだけで、3000人の村人に、中国語の話せる日本兵が「写真を撮ってあげるので、ぎゅうにゅうやの所に集まりなさい」と騙して集め、数丁の機関銃で惨殺したという。二人の方の通訳をしていた女性は、再三、声を詰まらせ、日本語にはならなかった。掘り出した800体の遺骨のなかに、二人の家族10人が含まれているという。日本に帰ったら、たくさんの人に話してください、平頂山事件のことを伝えてください、と強い語調ではなされた。

午前中、撫順西露天堀の現場をみた。東西10キロ、南北4キロのすり鉢型をした大穴の底で、今も石炭が産出されているという。日本では想像できないスケールだ。町の空気が昔なつかしいコークスの匂いを漂わせていると感じた。つづいて、撫順戦犯管理所を見学。この管理所は1930年代には、日本軍国主義者が抵抗者を捕らえて入れた場所だという。ラストエンペラー・溥儀も収監されていた。

午後から、元戦犯管理所職員だった催仁杰さんから、日本語で当時の様子をうかがうことができた。こんなに中身が濃く、私たちにとって重い一日がほかにあるだろうか。あるとしたら、それは、これから訪ねる南京での日々であろうと思った。今回、経験したことは、どこをとっても内容が一杯で、とても数枚には書き切れない。

いつの日か、私の中で消化された時には、私の言葉として子供たちにもわかりやすく、ガイドできるだろう。         


南京大学校内の虐殺記念碑

「南京、現地に立つということ」/太田光一

南京の屠殺記念館の入り口に「全国青少年教育基地」という江澤民自筆のプレートがあった。他にもこの教育基地の文字は記念館などで目にした。どれだけの中国の若者たちがこの記念館を訪れ日本の侵略の事実を目の前にするのかは知らないが、国としては、事実を決して、消し去ることのないように若い世代に伝えていくのは当然の事だと思った。この記念館の記録は、淡々と事実を伝える新聞、写真などが主で、その一つ一つがそれゆえに重たく感じた。

そこで、私は、広島の資料館の展示を思い起こした。どちらも戦争の被害を記録し、戦争の持つ恐ろしさを十分に理解できるが、全く内容が異なる。南京は日本軍の侵略と虐殺の実態であり、広島は、米国が落とした原爆の被害の実態である。広島の資料館の方が展示が整い過ぎたがゆえにか、遠い過去のように思えたが、南京は初めての事もあってか、飾らない展示ゆえか事実をしっかりと伝えているように思えた。中国の若者が、広島を訪れ原爆の悲惨さに触れたとしても、十分に原爆のもつ非人間性を感じ取れるのか自信がない。それは南京での日本軍の非人間的な行いが想像以上に重たく大きいからである。

戦争を一面で語る限界を思った。加害の側の日本が、例えば広島の資料館に南京のあの記念館の資料をそっくりそのまま対置することが現実にできたとした時、戦争の捕らえ方がまた、大きく変わることは予想できる。それがないとアジアの人々に核廃絶の理解は得られないようにも思えた。

さらに、中国の人々の意識は分からないことが多かった。60年前のあれだけのことを人々は、忘れているはずは当然なく、個人の歴史の中にもきちんと刻んでいるはずである。(あの歴史を「国家はナショナリズムの高揚のために未だ利用している」などという声も聞いたことがあるが、それにコメントする立場にあるはずがない。)

しかし、記念碑をみて歩くとき、草鞋峡などの荒れたいくつかの碑は地元の人々の目にはどう写っているのを考えた。あの時、ガイドの戴さんが回りの汚さに「恥ずかしいよ」と困惑顔でゴミの上をまたいで通ったが、私には彼の気持ちはよく分かった。あの碑の有無にかかわらず目の前に未だあの現実があるのか、人々は生々しい記憶を忘れ去りたいがために風景の中に置き去りにし無関心を装っているのか。地元の人々の慰霊の思いをあの碑は組み取ってはいないのか、何の権力もない南京の一市民が、記憶に刻むとはどういう事なのか、どういうことをすればいいのか分からないことが多い。上海で見学した国家の保護下にある宗慶齢(孫文夫人)陵との比較するとますます、南京の300000の数字が語る内容は多い。

南京にあの現実が今も、生々しくあるにもかかわらず、日本の地ではそれと掛け離れたうごきがまかり通りそうになっているのだが、「自国の300万人の無意味な死者を無意味ゆえに深く哀悼することが、そのまま2000万人のアジアの他者たる死者の前に私たちを立たせる。‥‥また、そういう死者への対し方が作り出されない限り、日本社会総体がアジアの死者に謝罪する形は論理的に追求不可能である。」(「敗戦後論」 加藤典洋)などと言わせてしまい、共感をおぼえさせてしまっている現実があるが、南京の地を踏むとこの発言の持つ手前勝手さが身にしみて分かる。しかし、この旅で多くの遺骨を目にしたときそれを「物」として見てしまっている(見ようとしている?)自分もそこにいて、整理がついていないのも本当の所である。


平項山惨案遺址紀念館

「自分たちが死んだ意味を伝えよ」/門永三枝子

昨年60周年のシンポジウムに参加したとき、その規模の、予想に反した小ささに驚いたが、今年の旅行で一番驚いたのは、平頂山の記念館を訪れる日本人が年々増えて380人という事実だった。平頂山事件はおろか侵略戦争としての日中戦争の全体像を思い浮かべることすらできない日本人(特に若い人)が多いのではないかと思う。直接の当事者ではないにしろ戦後世代の私たちの責任ということを思わずにいられない。それにしても380人とは…。日中間の戦後はいつどのようにして終わらせられるのだろうと心が沈む。

 あの掘り起こされた白骨の数々、私は骨に表情があるということを初めて知った。幸存者揚さんの激しい口調と、柳条湖記念館で見た壁画が全部重なって迫ってくるようだ。なんの罪も理由もなく、だまされて殺された人々が今も叫び訴え続けている。わたしは「自分たちが死んだ意味を伝えよ」と骨をさらして訴えている人々にであってしまった。人の心に触れることはとっても難しいことだけれども、茶髪にピアスの若者に説くには、月までもあろうかと思われるほどの距離を感じるけれども、やっぱりここをやりきる以外にないのだろう。

 撫順戦犯管理所はぜひとも訪れたい場所だった。中帰連の人々の、深い深い反省と悔恨と「歴史を繰り返させてはならない」という使命感に触れたとき、軍国主義の直接の下手人であった自分の罪行を真正面から見据えることは、こんなにも時間とエネルギーを要する作業なんだとまのあたりに見た思いだった。そして人間を信じることに勇気を与えられたような気持ちがした。

 私は来年も中国へ行きたい。この1年間でこれだけ歴史を前へ進める努力をしてきましたよと報告するために。わたしの戦後責任を果たすために。そしてもうちょっと中国語が上手になれるように(ナンヤ、ソレハ)。


撫順露天掘り炭坑にて

印象深い平頂山/門永秀次

 神戸空港・住民投票運動の準備などで少しばかり躊躇していた第二回めの訪中だったが、思い切って参加した。南京は一度で十分と考えているわけではないが、今回の参加は私なりには東北・撫順の平頂山であり戦犯管理所だった。

 その平頂山惨案遺趾、とても印象的だった。1932年の虐殺現場に建つ遺骨館、発掘された遺骨がそのままの姿で陳列されている。一つひとつの骸骨がすごい形相で日本軍の蛮行を告発し、肉も皮膚もない人間の骨がこれほど豊かな表情を持っていることをはじめて知らされた。ほんとうに悔しかったに違いない。この遺趾を訪れる日本人が年々増えてはいるがそれでも年間380人と聞き、過去に日本人が行ったとんでもないこの残虐行為の事実を、日本人の歴史認識としてもっともっと確かなものにし広げていくことの重要性を痛感した。

 撫順戦犯管理所では元職員の崔仁杰さんの流暢な日本語の説明を聞き、『中帰連』など多少は読んできた管理所の仕事が実感をもって理解できたように思う。

 二度目になった南京は、少しは地図の援けを借りながらも、市内のどこをどう移動しているのかなどがおおよそ了解できるようになり、南京を訪ねることの興味がいっそうかき立てられるようになった。旧ラーベ寓や予定になかった慰安所跡など昨年よりは多くの城内の趾跡を訪ねることができ、去年とはまた違った南京を見ることができたと思っている。昨年の反省の一つであった江東門記念館の見学もシンポジウムを袖にしたことはさておいて、今年は「南京1937 燕子磯」の絵や写真・館内の展示をゆっくり見ることができてほんとうによかったと思っている。

昨年に引き続いて中国を訪れて、中国とりわけ上海の変貌ぶりには目を見張るものがある。若干の危惧を感じないわけではないが、それは中国人自身が決めること。だがわれわれが1931年や1937年の蛮行の歴史的事実を心に刻む努力を重ねていかなければならない一方で、中国側も草鞋峡でみた紀念碑のまわりのゴミの光景は、ぜひなくしてほしいものだとねがっている。


長江大橋から草鞋峡方面をのぞむ


大増水の長江、岸辺の自動車修理工場、2階立てのガレージの1階が水につかっている

自分だけが、記憶に残すだけではいけないように思えました/由 佳世子

上海の入国手続きで、中国語の本を片手に少しドキドキしながら、いっもよりスムーズに(いつもいろいろ質問され答えられずに尚ちてしまうのですが、今回は名前だけだったのでホッとした)手続きが終わった。空港のコーヒールームでお茶をのんだ後、国内線の乗り換えで予想外に、私は止められてしまった。中国人がいるよというような感じだった。通訳の戴さんが、華僑だと説明してくれた。徐さんからも顔を見て中国人だと思ったと言われた。顔や服装が 'Zhongguoren’、中国を、自分を見つめる旅の始まりでした。

 撫順・南京への訪問は、2回目でしたが、今回は南京での数々のフィールドワーク、平頂山虐殺・南京大虐殺の幸存者の証言等、前回では体験できなかったことが、実現できました。

 ラーベ故居(現在は南京大学の職員住宅)でのフィールドワークは、階段を上り奥へ進んで行くと、当時の人の気持ちになり、どれだけ多くめ中国人が恐怖におののき、ここで身をひそめていたのかと、考えずにはいられませんでした。

 虐殺地の碑には「前事不忘、后事之師」と刻まれ、教育施設の場とし、中国人は歴史を戒めにしているのだろうと思われました。

 そして、年老いた幸存者の証言の一つ一つの言葉から、ほんとうにつらい残虐なことを思い出させている。自分だけが、記憶に残すだけではいけないように思えました。

いつもとても暑い夏に中国を訪れるのですが、人が多くてエネルギーにあふれ、力強さを感じました。帰ってからも、南京や中国に関する本を少しずつ読んでいます。自分と結びっけて考えていこうと患います。


鼓楼病院

「侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館」/竹林 寛賢 

今回のツアーに、「中国の東北地方」を回る予定である――とあったのが参加する第一の動機でした。今クラスにいる中国からの子、その子たちがどんなところですごしてきたのか。その上、日本がかつて中国侵略で行った暴虐の数々をこの目で見、確かめてきたい。

事実それだけに、今回の旅行は、広い中国の中でも、瀋陽−撫順−南京−上海という(中国としては)ほんの一部をまわっただけでしたが中身の濃い、充実した旅行でした。

 二日目に訪れた平頂山の殉難同胞遺骨館。そこに累々と横たわる遺骨にガーンと頭をなぐられたような気がしました。折り重なっているもの、抱き合っているもの、‥‥。ガソリンの缶が無造作に捨てられている。日本軍によって、写真撮影をするからと言われて広場に出され、機関銃で3000人のものが射殺され、まだ生きていれば銃剣刺し殺され、証拠隠滅のためガソリンで焼かれた。親が子どもをかばっているもの、何かを訴え叫んでいるように口をあけているもの。中には障害者も。

数の多さにびっくりすると同時に,銃剣で刺された傷跡が残っている骨。焼け残った布。‥‥ショッキングで悽惨な光景でした。

南京では、戦争の侵略性が最もよくあらわれた、大虐殺のあとを訪ねました。暴行・略奪・放火・強姦そして虐殺‥‥。何気ない風景の中に,このような過去があった事に愕然とさせられました。南京大学のテニスコート、天文台、図書館。すぐ近くにラーベの住んでいた家。鼓楼病院、このあたり一帯は安全区だったはずなのに日本軍が踏み込んできて連行していったという。他、フィールドワークでまわった北極閣,東郊叢葬地、雨花台、ゆう江門,煤炭港、草蛙峡では何の変哲もない平和なところ、地元の人すらこの近くで同胞が大量に虐殺されたと知らないでいる(?)。時の流れは、悲惨さすらどこかへ押し流してしまうものらしい。

『侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館』では戦争の侵略性を、そして事実を時間の経過をおって展示していました。たくさんの現場写真、図表、実物‥‥、どれを見ても胸に迫ってきて、思わず目をふさぎたくなるものばかりでした。今年になって,建築のため土を堀り返したところ、35体の遺骨が見つかったと。銃剣で刺されたあとがくっきり残っているもの、口の中になにか入れられているもの、縛られていたあと、小さい子など。館内を掘り返せばどこからでもゴロゴロとこうした遺体がでてくるとか。遺体がこれだけ大量に、無造作に投げ捨てられた(そこは池だったらしい)様子見ると、記念館の正面に刻まれた「300000」という数字は決して誇大でも嘘でもないと実感させられます。

碑とか記念館がなければやりすごしてしまう(かも知れない)、そんな“大虐殺”の跡・戦争の爪跡でしたが、それだからこそ私たちは事実のを見、心に刻みつけ、後輩たちに伝え、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしていかなけれならないのだと考えさせられました。「慰安所」跡など、市井にあって、市民ですらもう遠い過去のもの、忘れかけていたものです。

 戦争は、している本人たちよりもまず先に、幼い子ども・老人・女性・そして障害者に犠牲を強いてくるものだと言うことを実感できたこと。「のろま」「役立たず」の一言で真っ先にこれらの人がねらい撃ちにされるのが事実です。しかし旅行中の証言は,素直には聞けなかったのです。むごすぎて。以前ならば初めから耳をふさいだりしたものでした。今回の旅行では、今まで見えていなかったところ、見られなかったことに目を開かせてもらった気がします。

 今回の旅行では、長江付近の大洪水のほんの一端を垣間見ることができたこと、撫順市内あるいは南京市内を歩いて市民生活の一部にふれられたことも大きな収穫だったように思います。自転車の多さ、それ以上に人の多さ・にぎやかさ、外で遊ぶ子どもの多さに圧倒されました。このような光景は何年か前には日本で普段に見慣れたものだったはずです。

 また(特に上海での)建設ラッシュ、道端で憩っている人、おしつけがましいまでの露店の販売、車のあわただしさ‥‥。

今回のツアーを企画・準備し、最後まで参加者のめんどうをみられた団長さん、秘書長さん、ご苦労様でした。おかげさまで実りのある旅行ができました。そして、いいたくさんの出会いがあったこと。目に見えないところでのご苦労・長い下準備に感謝いたします。

特に私の場合など、この夏は足の調子が悪く、何年かに一度の‘腫れ’が出て「本当に大丈夫だろうか」と心配もありましたが、おかげさまで日程は全部こなすことができました。皆さんの好意に甘えてばかりでしたが、日本に戻って、日々どんなことが必要なことなのかも教えられたように思います。ありがとうございました


中山埠頭遭難同胞記念碑

朝鮮独立運動の遺跡 in 上海

上海では、朝鮮独立運動に関係するところを二ヵ所訪ねた。

ひとつは、現在の魯迅公園である。1932年4月29日、当時、虹口公園といわれていたそこで、「天長節祝賀会」が開かれていた。壇上の陸軍大将白井義則、同中将植田謙吉、海軍中将野村吉三郎、駐中国公使重光葵(後の外相)らに、朝鮮の独立運動家・尹奉吉が爆弾を投げつけたのである。重光公使はそのとき片足を失った。

尹奉吉は、同年12月19日、金沢刑務所で銃殺された。遺体は、正式に埋葬されることなく長い間、通路にあたるところに埋められていたというのである。

もう一ヵ所は、大韓民国上海臨時政府跡である。臨時政府は、1919年の「3・1独立運動」の後に作られた。訪問したのは、その中の接待処跡である。延吉かた来たという朝鮮族の女性が案内をしてくれた。(飛田)


魯迅公園内の尹奉吉記念碑


大韓民国臨時政府接待処跡


右の入り口から接待処に入る

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撫順での証言
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崔仁杰さん


旧撫順戦犯管理所館で説明する崔仁杰さん

証言@/崔仁杰さん(撫順市戦犯管理所職員)
1998年8月12日15時30分〜
撫順市人民対外友好協会にて

撫順市戦犯管理所は30年代は日本の監獄として、8・15以降は国民党兵舎として使われていました。

私は1926年生まれ、72才です。1952年から1970年まで戦犯管理所に勤めました。その内、65年まで日本人、その後、国民党戦犯の管理教育を行ないました。1970年文革で百姓となり、その後、撫順石油学院の日本語教師をしています。

 1950年、日本人戦犯がソ連より引き渡され、7月、入所のため大改築を行い、暖房装置を入れ、受け入れ態勢を整えました。東北人民政府の公安部、司法部、衛生部より幹部を抜擢しました。

 初めの頃、シベリアで収容所生活だったため、悪条件のもとでの捕虜状態で、家畜車に乗せられ、中ソ国境で引き渡され、日本に帰れると思っていたのに撫順への客車にのせられた捕虜達のうち、佐官、将官達は(彼らは軍国主義者で東方遥拝をし、軍歌を放吟していました)看守に喰ってかかりました。廊下には解放軍戦士がいて、威圧していました。ある元旅団長が所長に面談を申し入れ、「見張りには及ばない。捕虜は逃亡しない」と言いましたが、所長は「これは必要な無駄遣いです」と答えました。

 「鋼鉄戦士」という映画(八路軍兵士が捕らえられても節を曲げない話)を見て、ある元警察局長は、「服従しない」と言いました。看守は捕虜の人格を尊重し、殴ってはいけないことになっていましたが、所長は元警察局長に手錠をはめ、独房に入れました。局長は反省し始末書を書かされました。始末書は何度も書直し、やっと大部屋に戻ることを認められました。そして、このことは所内で放送され、元英雄の面目は失墜しました。

「人間は改造できる。政策と方法が正しくありさえすれば」と毛沢東は言っています。人間の良心は取り戻すことができるのです。日本人戦犯の共通点は天皇崇拝、軍国主義思想、武士道思想でした。それで天皇制批判を行い、天皇の本質を知らせました。また、国際情勢を認識させました。朝鮮戦争でアメリカが解放してくれると期待したことも失望に終わりました。

毛沢東の著作は「新民主主義論」「持久戦論」を学習し、日本の進歩的書籍、新聞なども読ませました。「赤旗」などです。

 また、労働教育を通じ、働く人の思想、感情を体得させました。人民大衆が主人公だということです。セメント瓦、マンホール作り、養鶏もさせました。(その鶏が最初の卵をうんだのが8月15日です。)

 さらに、参観教育も行ないました。西露天掘へ3グループに分かれて行き、平頂山の生き残りで露天掘で働く人の証言を聞きました。彼は真人間になってほしいと訴え、戦犯達は全員落涙し、その日の夕食の量は大幅に減りました。その後あちこち参観に行くようになりました。 56年、3グループに分かれ、全国参観に行きました。寝台車で北京、天津、上海、武漢、広州をまわり、幼稚園から大学まで行きました。産業も見学し、共産党のもとでの新しい生活を見せました。

私達は、革命的人道主義で戦犯を待遇しました。暖房も入れ、生活習慣を尊重し、階級ごとに食事内容を高度にしました。私達は一食15元でしたが、日本人将官は20元でした。米と小麦が主です。雑穀は栄養をとるためだけ入れました。保健にも気を配り、重病者は専門病院または療養所にいれました。散髪は月一回、髭剃、入浴、大掃除は週一回、歯の検査をし、必要なら入歯もいれました。義足もです。

 学習委員会を組織し、自分のことは自分で管理させました。文化創作部、生活体育部がありました。毎週、中国、日本、ソ連などの映画を上映しました。日本の映画では「原爆の子」「基地の子」「箱根風雲録」「女ひとり大地を行く」などです。

 周総理は「戦犯を逃亡、自殺、病死させず、殴ったりののしったりしない。人格を傷つけてはいけない。革命的人道主義を実行するように」と言いました。私も他の看守も実行しました。

 ある戦犯が絶望し、屎尿の中に飛び込んだときも、看守の一人がそこに飛び込んで救い出しました。重病の戦犯を私立病院に送るとき、医者が彼を背負って階段を登りました。ある時、庭でバスケットボールをしていてガラスを割りました。看守はすぐ「怪我はなかったか」と聞きました。

 戦犯の大部分は日本の庶民、普通の人です。それが侵略戦争で鬼に変えられ、また人間に戻ったのです。56年、戦犯達は特別軍事法廷に立ち、罪行を認め、謝罪し、中国の法に服する姿勢を示しました。舞鶴に着いても同じ姿勢でした。私達は敵であったのが、看守と収容者になり国際友人となりました。これらの友人を持てたことは光栄であり、私達は同志です。彼等はその後、中帰連(中国帰還者連絡会)を作りました。これは党の正しい政策がもたらした奇跡です。64年、最後の3名が期限前に釈放されました。

 戦犯の一人、華北派遣軍59師団中将師団長藤田茂の夫人は、中国にたいして不平をもって面会に来ましたが、看守なしの面会で、夜は同宿を許され、夫と話し合いました。藤田さんは「妻に家庭を預け、自分は中国で侵略を行なった。内助の功にも戦争責任がある」と話し、翌日、彼女は「内助の功の罪責」を告白、夫とともに服役することを願いました。藤田さんは竹を割ったようなさっぱりした気性の人でした。納得がいかなければ絶対に従いませんでしたが、一旦納得すれば、あれこれいわず自分の非を認めました。

歴史を伝えることは、日中友好のため、平和のためです。藤田さんはそのために誠実に働かれました。

(まとめ 宮内陽子)

 

証言A/楊寶山さん(男性 76才)
平頂山虐殺事件幸存者からの聞き取り
1998年8月12日(水)
撫順行政学院


左が楊寶山さん、ひとりはさんで莫徳勝さん

1922年生まれ、1932年平頂山残虐事件当時は、10才だった。当時家族は、父、母、弟、私の4人だったが、事件で3人が死に、私しか生き残らなかった。平頂山残虐事件2時間で3000人の中国人を100人の日本兵が殺した。

1931年9・18事変で、中国東北地方を占領した日本は、中国東北地方の人々を、日本軍のために働かせた。父も働いていたが、お腹いっぱい食べたことがない暮らしだった。中国人を人間扱いしない、馬や牛のように働かされていた。

中国人はこれ以上我慢できないと抵抗して闘っていた。日本人を追い出したい、と当時の中国人は思っていた。労働者と農民は、抗日義勇軍を作って日本軍と闘っていた。昼も夜も続く闘いで、けがをした人、死んだ人もいた。

(1932年9月15日)日本の兵隊と闘っていた抗日義勇軍が平頂山を通っていったことが分かった、と言って、日本軍は、平頂山の村を通っていったことを報告しなかった、と怒ってきた。

「昨日のことがあるから訓練がいる。そのためにまず写真を撮る」という嘘を言ってきた。中国人は正直だから、「そうですか」と出ていった。牛乳屋(当時珍しい乳牛を飼う牧場もあり、その牛乳を売る場所もあった。牧場の広さと、周りを囲う柵で逃げられないのでこの場所を選んだのではないか、と宮内さんの報告あり)というところへみんなを集めてきた。みんな時間通り集まった。周りに6本の機関銃があったが、黒い幕が掛けられていた。母に「あれは何か」と聞いたが、母は答えなかった。

軍隊の偉い人が、私との距離は10m位の所から、「全員立て。病気にかかっている人子どもを助けて立て。東の方を向いて立て。写真を撮る」と言った。気が付いたものが「写真じゃない、機関銃だっ」と叫んだ。すぐ「やれっ」と叫び、逃げ出した人に向け撃ちだした。父が弟の手を取ったところを撃たれてしまった。それを見て母は私を自分の体の下に隠して倒れた。「母さん、母さん」と叫ぶと、「ハイハイ」と返事が最初は聞こえたが、だんだん小さくなった。自分も10才だから、父弟と亡くなり、不安になっていた。機銃掃射破何回かあったが、そのうちに止まった。軍人が叫んだ。「お前達逃げていけ、日本人はいなくなったから、逃げていけ」逃げたいと思ったが、すぐに2回目の機銃掃射が始まった。その時の機関銃で撃たれて母が死んだ。母を呼んだら、口や鼻から血が出ていて、自分の上に流れてきた。自分の足や、腹、背に銃丸が通った、腰から入って足で止まっていた銃丸を2年後外に取り出した。またその後に「日本人はいなくなったから、にげろ」と嘘を叫んだ。誰も聞かなかった。

雨が降り出した。雨が降り続けていて、母の体の下に隠れていると、雨の音と、銃剣で人を突き刺している音しか聞こえなかった。もしかしたら、もう少しで自分が殺されている可能性があった。母親が死んでもしっかりと抱いてくれていたので、日本兵が分けようとしても分けられなかった。

また、「日本人は行ったから大丈夫」という今までとは違う声がした。何人か子どもの泣き声がした。みんな血まみれだった。起きあがったとき、母の目は開いていたが、父の死は確かめられなかった。逃げ出していくと靴が脱げた。どうしても、確かめたくて、戻ったが、血まみれになっていて、誰が父で誰が弟か見分けられなかった。(ずっと泣きながら話してくださる)小さな1才2才位の子どもがまだ生きていた。手や足を切られた人も見えた。妊婦で8ヶ月9ヶ月の人もいたが、腹を切り裂かれ、お腹から赤ちゃんの姿が見えた。自分も同じ母親のお腹から生まれているのに人間がこんなひどいことをするなんて、人間ではない、軍国主義者は鬼だ、と思った。

こうりゃん畑まで必死で逃げて、一晩そこでじっとして泣いていた。優しい父もいなくなり、どうすればいいかと思った。右足が痛くて、近くの農家の人に頼んで、その家族の一員にしてもらった。

二年後手術して足も強くなってきたので、撫順市に出てきて、一人で暮らすようになった。日本人の下で働いたが、中国人相手の日本人指定の食堂で食べたら、1日3角、それでないと、2・4角しかもらえなかった。この14年間の、日本人の支配した時代の苦しさやつらさは想像できないのではないか。戦争が終わってから暮らしは良くなってきた。

800体の掘り出された遺体の中に自分の父母や弟がいる。私のようなひどい目を受けた中国人は日本軍国主義を恨んでいる。今日は歳をとった人もたくさん来ていらっしゃる。若い人に正しく伝えてください。

1972年中日国交正常化を歓迎したが、日本軍国主義者が中国侵略した事実をまだ認めてない人が、政府の中にも一般の人々の中にもいる。「平頂山は、中国人が作った」という文を書いた日本人やそれを支持する人がいる。戦争の時のことを謝罪しなければ、本当の友好はできない。平頂山殉難同胞遺骨館に1995―98年に1229人の日本人が来た。1995年96年と増えて、毎年300人になり、今年は、380人来ている。子ども達に事実を是非伝えて欲しい。(まとめ 小城智子)

 

証言B/莫 徳勝さん(74才 男性)
平頂山虐殺事件幸存者からの聞き取り
1998年8月12日(水)
於/撫順行政学院

楊さんが事実をそのまま伝えたから、もう話すことはない。(莫さんの経験を是非、聞かせて、と請われて)家族7人といとこの家族5人12人が日本軍に虐殺された。

9月15日中秋節のお祭りの日、北の方に抗日の部隊が走っていった。その後北の方から銃声が聞こえた。

翌日の事件は日本軍の計画的な絶滅だ。次の日に牛乳屋に集められた。6本の機関銃で2時間以上撃ち、そのあと一人一人銃剣で刺し、死んでいるか確かめた。その上ガソリンを死体の上にかけ、燃やして自分のやったことを隠した。さらに山を爆破して崩して、周りの中国人にも知らせないようにした。でもそれは分かるものだ。

私の家に3人の日本兵が来て、「我々は皇軍だから、抗日の悪い軍からみんなを守る」と年輩の中国を話す人が言ったが、父がおかしいと家を離れないので、日本兵に銃剣で殴られ、仕方なく自分の手を引いて、母妹祖母祖父と出てきた。「言うことを聞かないと死んでしまうぞ」日本兵が「スラスラ」と叫んで、てん足で歩けない女性をやたら殴った。

機関銃で撃たれた後、回ってくるので、刺されると思ったので死んだふりをした。体を横に向けていたが、肩を刺された。

(※莫さんは、昨年3月に日本に話に来られた。早乙女勝元さん著「ハルビンからの手紙」(1990刊)にも証言がある。本多勝一著『中国の旅』」にも書かれている)(まとめ 小城智子)

 

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南京での証言
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証言C/曽 秀蘭さん
1998年8月15日
南京大屠殺記念館にて
南京大虐殺幸存者より聞き取り


右からふたりめが曽秀蘭さん


南京大虐殺記念館の発掘現場

(1919年(旧暦8月15百)生まれ 80歳、女性。)

 私は、昔は南京のサイシコウという村に一家15人(実際には14人、姉の一人は遠くへ嫁いでいたので)住んでいました。13人が日本兵に殺されました。このことを思い出すと涙が止まりません。

日本兵が来るので村の外に隠れていましたが、みな荷物を取りに戻った時に、殺されました。日本兵が我が家に入ったのは、朝9時頃です。2人の姉(兄の嫁)は5人の日本兵に強姦されました。5人の日本兵は1人の姉を強姦し、続いて2人目の姉も強姦しました。子ども(生後7日)が生まれたばかりだったので、血で真っ赤になりました。強姦が終わってから銃剣で殺されました。生まれたばかりの赤ちゃんの肛門から銃剣を差し込んで、上にあげて赤ちゃんが泣くのを日本兵は喜んでいました。

その後、赤ちゃんを地面に投げて殺しました。2人の兄には、日本兵は丸太を運ばせ、兄が2人で1本運ぶ(1人では重くて運べない)と言うと、ダメだと言い、頭を銃剣で切り、兄の頭は地面に転げ落ちました。

父と母も兄と同じように丸太を運ばされましたが、断ったので銃剣で殺されました。3人の兄弟も、丸太を運ぶことを断ったので殺されました。朝から家を出ていた姉2人は帰る途中で5人の日本兵に会いました。5人の日本兵は2人の姉を家に連れてきて、手と足をひもでしばり強姦しました。強姦のあと銃剣で刺し殺しました。

当時私は、トイレに身を隠しトイレの窓から家中のことを見ました。日本兵に見つかりましたが、鍋の炭を体中にぬっていたので、服を脱がされたが真っ黒はダメと言って私は助かりました。家に残っている子豚1匹、にわとり4羽と隣の家の牛を殺して持って行きました。

すべてのことが終わると日本兵は、家にガソリンをかけて燃やしました。

 家族の死体を車に積んで江東門の近くの橋に運びました。橋が壊れていたので、死体で橋をつくっていました。

 当時の日本兵は我が家ですべての悪いことをやりました。強姦・掠奪・虐殺・放火。

 私は他の村に逃げました。泣いていたところ、ある人にどうして泣いているのか尋ねられ、わけを話すと他の人の嫁さんになったらどうですかと言われ、炭をとり、服を貰いました。そしてその人と結婚しました。

 今まで証言できなかったのは、読み書きもできなかったので言えなかったのです。最近、日本では南京大虐殺がなかったと言っている日本人がいるということを聞いて憤りを感じています。事実はひとつです。私は歳をとって何も嘘を言うことはありません。事実をわかってほしいと思います。

※ 現在、喘息を患い、娘が2一時間介養している。夫は今年の7月死去。(まとめ 由 佳世子)

証言D/傅兆増さん(63歳)
1998.8.15
南京大屠殺記念館にて/南京大虐殺幸存者より聞き取り


傅兆増さん


ゆう江門叢葬地紀念碑

今年63歳ですので、1937年当時は一歳ちょっとでしたので、これから話しをするのは、父と母から聞いた話しです。

被害の状況から言いますと、父の妹が殺され、母と私が負傷しました。傷痕は先程、みせました。(左足の腿)    

では、今から当時の状況をお話します。

長楽路の388号、中華門・夫子廟に近い所に住んでいました。

1937年12月14日の早朝、日本軍の様子は見えなかったのですが、あちこちで家屋が炎上している状況でした。(家で織物を織る仕事をしていたので、あまり外に出ることがありませんでした。それで、日本軍が入ったということは、わからなかったのです。) 母が私を抱いて、自分の家の前方にある広場へ行って、外の様子を見ていました。(方々で家が炎上していたので、好奇心から外へ出たのです。)

 当時、広場に居たのは、母と父の妹が一緒でした。炎上している家屋を見ている所に、向こう側(377号)から、日本兵が二人やってきて、私たちを見ると、すぐ発砲しました。母は私を抱いていたので、私の左足の腿の所をとおって、母の腰の所まで弾丸がきました。 広場の向こう側に逃げようとしました。

 394号には、散髪屋があって、夫婦二人が見えていました。

392号まで逃げたところで、日本軍がまた発砲し、父の妹(27歳、母より2歳年上)がその場で殺されました。とても怖かったので、そのままにして散髪屋の所まで逃げてきたので、確認する暇がありませんでした。 母は私を抱きながら、前方の庭を通って後ろの庭まで逃げました。散髪屋のおじいさんもドアの後ろに身を隠しました。日本軍はこのおじいさんを拳銃で殺しました。

 裏庭から出て、自分の家の後ろ門まで、母は私を抱いてきていましたが、一歳でしたし弾丸が当たっていたので、私は泣き出しました。泣き声が聞こえると大変なので、私は一歳以上になっていましたが、母は哺乳して私の口を塞いだのです。           散髪屋さんは、二人とも殺されたのです。 父を呼んで、裏門がなかったので家に入れないので、塀に穴を掘って、穴から自分の家に戻りました。

 今思い出しても、自分の命は九死に一生だったと思います。弾の位置がずれていても、母が哺乳してくれていなかっても、と考えると悲惨な思いでいます。

 家があったのは、長楽路という南の方でした。怖くて、安全な所ではないので、北上して山西路の難民区に入ったのですが、四日ぐらい居ましたが、あと南の方へ戻ってきました。 広場には、400人程の死体がありました。

 以上が、当時の殺戮について、父母から聞いたことです。

父(1983年没)と母(1950年没)が、私の成長の途中で何回も話してくれました。「お前の命は拾ったものだから、大切にするように。どこに居ても頑張って。」と。 3、4歳になってから記憶にあるのは、中華門が鉄の網で閉じられ、門から入る時も出る時も、日本兵に礼をしないといけなかったことです。しないと殴られることが、しょっちゅうありました。普段も、日本軍にいじめられていることも覚えています。

1945年頃、家の前の広場は、ゴミ置き場になっていて、日本兵は(戦後処理の)ものを運んでいた。日本兵も貧しくて、食べ物はお粥ぐらいだったので、近所のおばさん達が、いろいろな野菜の漬け物を、日本兵にあげたのです。(文責 小谷美智子)

 

証言E/1998年8月15日
「幸存者聞き取り」 南京大虐殺
邱栄貴さん(現 84歳 1937年当時 23歳)


邱栄貴さん


8月15日、追悼会での佐藤団長

(1937年の12月13日との発言だが前日の12日の事だ 注:通訳者) 国民党の兵隊がいた川の向こうに日本兵が現れた。人々は県庁に閉じ込められた。そこで、中華門の近くに桶を取りに行こうとして、「日本兵が、生まれそうな妊婦を銃剣で刺した」という話を聞いた。私が、豚肉をもって入ろうとしたが、人が多くて入れない。3日ほど閉じ込められた。日本兵が、門の外で、捕虜たちを銃剣で刺し殺すのを目撃した。すぐに死ななかった人が逃げて発砲され、殺された人がいた。亡くなった人の血が川の水のように流れていた。その血が靴についてぬれ、なかなかはけず、歩けなかった。知り合いの友人(?)と重なった遺体の収容にあたった。日本兵は、完全に死んでいない人を銃剣で確かめていた。収容が終わって帰ろうとするが、こわいと思って家に帰る気がしなかった。それで、日本兵に仕事を手伝ったと言うことで「農家使用人」と書いた紙をもらった。

 家に帰る途中、果物畑で「おい、来い。」と急に現れた日本兵が、「殺してやる!」と2、3メートルくらいに銃剣をもって、背中の腰上から刺して来た。「農家使用人」の紙を見せると、「よろしい」と言って逃がしてくれた。朝8時に出て、3時頃になっていた。門で遺体に火をつけて焼いているところを見た。「止まれ!」と言われ「農家使用人」の紙を見せると、「来い、来い。」と言われた。村の墓の棺の中に空襲でやられたおばあさんの痛み始めた死体があった。その遺体を二人で運ぼうとするが、重いので動かない。人数が足りないというが、日本兵が早くしろと言う。おばさんの遺体を二人でひっぱり、川に放り込んだ。その後、ロバのそばで本を読んでいる日本兵がいた。一発、発砲され「来い!」と言われた。灰色のズボンをはいていた。ゆっくり近づいて来て、「中国兵か?」と聞かれ、「違います」と言って、「農家使用人」の紙を見せた。もう一人は、弱い性格だったので足でけられた。そして、「お前はもう行け!」と言われた。

 放送局の近くの川の近くで葦があった。白い紙に赤い丸を書いたものがあった。100名くらいの村の人が、日の丸を作ると日本兵は何もしないのではないかと村の人が作ったと聞いた。その近くで日本兵につかまった。わたしは、逃げて船の側の川の中で仰向けになって水の中にいた。殺そうとした日本兵は、もういないとあきらめてどこかに行った。

(1歳のとき母に背負われ、南京に物乞いにきたと聞いている。当時、字が読めなかったので、紙に「農家使用人」と書かれていたのも当時はよく分かっていなかったらしい。)(まとめ 太田光一)


南京の日本軍「慰安所」跡入口


入口を入って正面左側


「慰安所」内に作られた防空壕跡

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神戸・南京をむすぶ会第2回訪中団
スケジュール・記録 (by宮内他)
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8月11日(火、1日目)

1145 神戸・南京をむすぶ会訪中団関空集合完了
1340 離陸
1420 機内食
1437 (これより中国時間、時差1時間)
上海着、戴さんと再会、38℃晴天、空港のコーヒールームでお茶
1630 集合、国内線へ移動。
1820 瀋陽に向けて離陸
2000 瀋陽着、もやのかかる天気。何さん、徐さんと再会、トヨタのマイクロバスで撫順へ、沿線はポプラ並木。高速道路を通って。車内で何さんより挨拶。
2130 こん(さんずいへんに軍)河のほとりの撫順友誼賓館着、チェックイン、食堂で軽い夕食
2230 解散?、夜半に雨。1階のラウンジで1本10元(180円)のビールで「お疲れ様」

8月12日(水、2日目)曇天のち晴天

0810 賓館出発、マイクロバスで平項山へ
0830 平項山惨案遺址紀念館着、通訳接待係の金花順さんより熱のこもった説明を受ける。遺体発掘現場へ
0925 平項山殉難同胞紀念碑前で追悼式
0950 バス乗車
1000 道路傍の万人坑へ、労工・阿片患者を多数埋めた場所、当時の目撃者・曹徳裁さん(75歳)より説明を受ける
1015 出発
1030 撫順西露天掘着、東西10キロ、南北4キロの大穴(元3ヵ所の炭坑の合体)、現在200万トンの産出量
1050 出発
1125 撫順戦犯管理所着、崔仁杰さんより説明を聞く
1230 出発、茂盛圓大酒店にて昼食。大量の食事、赤ぶどう酒つき
1340 雨上がり、出発、撫順市人民対外友好協会にて証言を聞く(趙興文さん、戦犯管理所職員)
1520 休憩
1530 崔仁杰さん(元戦犯管理所職員)より証言を聞く
1730 ホテル着
1800 同楽春飯店で夕食、更に大量の食事
1910 出発
1925 撫順行政学院着、平項山事件幸存者の楊寶山さん、莫徳勝さんの証言を聞く、出発(2100)
2125 ホテル着、解散(2130)、1階ラウンジでまたビール、昼食のとき出たかぼちゃの種で「お疲れ様」

8月13日(木、3日目)曇一時雨、のち晴

0840 ホテル出発
1000 瀋陽着、故宮見物、ロケ?(お祭?)に参加
1110 出発、驟雨
1200 友元(国がまえに元)賓館着、昼食
1320 雨があがり、出発
1325 北陵公園着、明二代皇帝夫妻の墓所
1420 出発
1435 9・18紀念館(柳条湖事件)着、参観
1530 出発
1540 遼寧友誼工芸美術有限公司着、買物
1630 集合、出発
1800 鳳凰飯店着、チェックイン、夕食
1930 解散
2030 秘書長の部屋集合、大阪グループ松浦、池島両氏合流、歌唱指導他
2230 解散

8月14日(金、4日目)晴れ

0500 起床
0600 出発、バスで瀋陽空港へ
0650 桃仙国際飛行場着
0720 手続済み、搭乗(0730)
0740 離陸
0810 機内食
0930 南京空港着陸、南京南方30キロ秣陵閣に建設された新空港
1025 出発、日野製バス、戴さんの案内
1100 状元楼着、チェックイン
1200 ロビー集合、夫子廟飯店にて昼食
1315 状元楼ロビー集合
1330 南京大虐殺フィールドワーク出発、通訳は盛卯弟さん(南京大学を卒業、労組で働く若者)
1345 南京大学(旧金陵大学)、南京大学の黄士星、高興祖両氏より挨拶
1350 高興祖先生講話、大学校内フィールドワーク、図書館、テニスコート跡、天文台、ラーベ旧居、避難民施設の図書館、そこから300人を連れ出したテニスコートに集め、漢中門外の五台山で刺殺、天文台近辺で700名埋葬、鼓楼病院(米国人経営、負傷者の治療にあたった)、北極閣(鼓楼病院〜太平門間の遺体2000余を埋葬)
1530 鼓楼病院
1600 北極閣
1615 国際安全区外周めぐり出発(バス)
1640 外周めぐり終了「慰安所」内に作られた防空壕跡
1700 状元楼着
1800 夕食
1900 解散
1930 8人で不子廟近辺散策
2030 秘書長室集合、銘心会南京グループの志水、大越両氏合流

8月15日(土、5日目)晴れ

0730 朝食、林伯耀さんと合流
0815 集合、バス乗車
0837 南京大屠殺紀念館着、朱成山館長よりあいさつ
0850 追悼式開始、松岡環「基調報告」、佐藤団長「追悼の言葉」、朱成山館長挨拶
0920 式終了、記念撮影
0930 館内見学(新しい遺体発掘現場を含む)
1120 バス乗車
1145 状元楼着
1230 集合、夫子廟飯店にて昼食
1330 バス乗車
1350 紀念館着、幸存者より聞き取り(曽秀欄さん、邱栄貴さん、傳兆増さん)、この間、下崎さんは団と別れて上海へ
1618 証言終了、北山敏博挨拶、お礼、高興祖先生お話
1640 終了
1700 状元楼着
1800 ロビー集合、バス乗車
1830 明故宮大酒店着、交流会
2010 終了
2020 同4階ダンスホールで「連関会」、むすぶ会「ふるさと」合唱
2200 終了
2230 状元楼着、解散

8月16日(日、6日目)曇

0830 ホテル出発(バス)
0900 南京大虐殺東郊叢葬地追悼碑周辺、草むしり
0920 追悼式、沈黙のとき
0945 出発
1030 雨花台着、追悼碑で沈黙のとき
1045 出発
1050 中華門着、見学
1115 出発
1135 利済巷49番地の元慰安所着、見学
1150 出発
1215 南京友好大厦内の南京雙門楼着、昼食、買物
1340 出発
1345 ゆう(てへんに邑)江門(イーチャンメンと読む)着、追悼碑前で追悼式、記念撮影
1405 出発
1415 中山埠頭着、長江の大増水を見る
1425 出発
1440 長江大橋着、見学
1535 出発
1550 煤炭港着
1600 出発、和記洋行前に停車後すぐ乗車
1620 草鞋峡(そうけいきょう)着、追悼の沈黙のとき
1635 出発
1700 玄武湖公園着、散策
1745 江蘇議事園内の茶芸美食娯楽中心着
1800 夕食
1920 出発
1945 状元楼着
2005 ロビー集合、散策出発
2115 華深大酒店にて夜食、「ふるさと」合唱
2200 出発
2230 状元楼着

8月17日(月、7日目)雨、降ったりやんだり

0740 集合、大雨
0750 出発、広州行2階建の汽車
0820 南京駅着
0845 出発、2階建の汽車、徐々に晴れてくる、36℃、晴れ
1205 上海駅着、20分遅れ
1222 バス乗車、大宇・桂林合弁バス、膨さんの案内
1230 龍門賓館着、昼食
1335 出発
1350 魯迅公園(旧虹口公園)見学
1410 尹奉吉義挙現場へ移動、その後内山完造墓に寄る
1430 出発
1448 大韓民国臨時政府接待所跡見学
1510 出発
1545 宋慶齢(孫文夫人)陵園見学
1605 出発
1620 天馬賓館にて買物
1655 出発
1705 上海新苑賓館着、チェックイン
1810 出発
1837 好望閣大酒店鹿鳴館にて海鮮料理?、食事中にお土産売りがうるさい
1940 終了、出発
2010 友誼商店着、買物
2105 出発、一部は外准(バンド)見学
2115 新苑賓館着
2145 2階バーにて銘心会南京グループと交流
2200 解散

8月18日(火、7日目)

0730 出発
0750 上海空港着
0910 搭乗
0944 MU515便で関空へ
1227 関空着(これより日本時間、実際の飛行時間は2時間)
1305 団長、秘書長をねぎらい解散

みんな、無事に、楽しく、終わりました。

編集後記

☆ 訪中から一ヵ月と少したちました。9月25日に大阪で開かれる「98年8月各団体訪中成果交流会」にあわせてこの報告書(正式版?)を作りました。昨年の報告集は、仮報告集だけができて、正式版はですじまいでした(反省!)。インターネット・ホームページの見られる方は、神戸・南京をむすぶ会のホームページ、http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/nankin.html でその未完成品をごらん下さい。

☆ 本報告集は文明の利器=デジタルカメラ、パソコンを駆使し?、報告書をつくりました。印刷は神戸学生青年センターのリソーグラフ、製本は人海作戦です。出来ばえはいかがでしようか。

☆ 今回の訪中のビデオ(約1時間、洪浩秀撮影)をご希望の方は、神戸・南京をむすぶ会事務局までお申し込み下さい(代金500円)。平頂山記念館と南京大虐殺記念館の様子が真にせまります。プロ並みの腕をもつ友人に、編集をお願いして更に20分?もののビデオをつくってもらおうという話もでています。

☆ 神戸・南京をむすぶ会では、時々に勉強会や証言集会を開いています。案内をご希望の方も事務局までご連絡ください。また、会員(会費、2000円/年)も募集しています。

☆ 台風、洪水が一段落して、来年は、‥‥‥‥と、また、いろいろと考えている今日このごろです。これを読まれてのご意見等、お寄せいただればうれしく思います。rokko@po.hyogo-iic.ne.jp(飛田)

奥付

神戸・南京をむすぶ会/第2回訪中団(98.8.11〜18)報告集
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1998年9月19日 テスト版( 50部)
9月26日 正式版第1刷(200部)
編集・発行 神戸・南京をむすぶ会 定価 300円
〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内
TEL 078-851-2760 FAX 821-5878
郵便振替<00930−6−310874 むすぶ会>
E-mail rokko@po.hyogo-iic.ne.jp
ホームページ URL http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/nankin.html

 

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