むくげ通信203号(2004年3月)

 丹 波 国 風 土 記 散 歩 1

 篠 山(丹波国多紀郡)を歩く― 篠山盆地西部・西北部地域 ―

           寺 岡  洋

 

 三 田 か ら 篠 山 へ

 篠山(ささやま)というとデカンショ節「丹波篠山 山がの猿が……」というくだりと、JR福知山(宝塚)線の駅が市街地と離れているせいか、山深い土地のように思ってしまうがそうではない。おおよそ東西16km、南北4kmの横長の盆地で、東西に加古川の支流である篠山川が西流し、さらに多くの支流により谷状の平地が形成されている。

篠山は律令制下の多紀(たき)郡になり、交通の要衝地。畿内と日本海地域を結んだ古代山陰道は、東の天引(あまびき)峠から篠山盆地を通り、西の鐘ヶ坂峠を越えて氷上(丹波)を経由し、但馬・丹後・因幡へ。福知山線が走る篠山川の険しい峡谷を辿れば播磨へ抜ける。盆地西南側は武庫川の上流になり、大阪湾沿岸(摂津・難波京)にも近い。

今回の散歩は武庫川沿いに北上し、篠山盆地西半の渡来系集団と関連ある(ありそうな)遺跡を見て、古代山陰道を東へ廻り、猪名川に沿って川西・伊丹へと下るコースになる。

西宮・宝塚から三田(さんだ)へは交通至便。三田市域(摂津有馬郡)は、吉士(きし)集団を始め渡来系集団の影が濃い地域である。かつて「貴志(きし)遺跡群と吉士集団」で紹介したが(『むくげ通信』155 1996.3)、多くのことを書き残しており、近いうちに再度取り上げたい。

三田市と篠山市の境界になる日出坂峠が摂津と丹波の境にもなる。峠とあるが、国道176号線では比高差を感じない程度。

峠の手前(南側)の三田市藍本では、舞鶴若狭自動車道(以下、舞鶴道)工事により高川古墳群が調査された。1号墳からは金銅製の鍔(つば)が、2号墳からは鉄地銀象嵌大刀

 

<図省略>

(てつじ・ぎんぞうがん・たち)が出土しており、このような装飾大刀が交通路沿いの古墳から点々と出土することに注目されている(『高川古墳群』兵庫県教委 1991)。

 

 篠 山 盆 地 西 部 の 遺 跡

● 庄境1号墳(旧丹南町大沢新)

篠山市(1999年、多紀郡内4町が合併)に入りしばらく福知山線沿いを走る。篠山口駅のすこし南で、舞鶴道工事により庄境(しょうざかい)古墳群が調査された(『庄境古墳群』兵庫県教委 1987)。ちょうど古墳群の前面の水田が篠山川(加古川)と武庫川の水分れ(分水嶺)になる場所である。

1号墳は直径12mの円墳で、墳丘に外護列石(がいごれっせき)が巡る(外護列石については後述)。横穴式石室は無袖(むそで)の胴張り(石室の中央部が膨らむ)タイプで、推定石室長は6m前後になる。

遺物では、ここでも装飾大刀である銀象嵌の鍔をもつ大刀が出土した。磨けば銀色に耀く鉛製の耳環が3個体出土したのも特異である。時期は6世紀末〜7世紀初頭。

 

● 桂ヶ谷・ずえが谷・灰高遺跡(古墳群)

丹波大山駅前から篠山川を渡り、篠山川右岸(北岸)を川代公園(氷上郡山南町)まで走ってみる。崖を削って造った道で、対岸(南岸)には崖にへばりつくように福知山線の線路が見えた。峡谷の高低差は約100mあり、難工事だったと思われる。

雪も残っており、「分布調査報告書」を持っていないので寄らなかったが、右岸の山田塚の谷には20基ほどの群集墳があり、1号墳から金銅装(こんどうそう)大刀が、2号墳からは単鳳式環頭大刀(たんほうしき・かんとうたち)の柄頭(つかがしら)が出土している。1号墳出土の須恵器の年代は7世紀初めころ(『日本の古代遺跡 兵庫北部』保育社 1982)。

装飾大刀の交通路に沿う出土状況は、明らかに、計画的に倭王権に近い集団が配置されたことを推測させるものといえる。

山田古墳群の対岸(南岸)、水門がある西側一帯の三釈迦山(みしゃかやま)北麓は丹波並木道中央公園造成のため大規模な発掘調査が行われた。遺跡名が多いがすべて隣接する(『年報』兵庫県教委 2000〜2002年)。現場はまだ工事中で立入れなかった。

桂ヶ谷(かつらがたに)遺跡は、弥生時代中期から古墳時代後期に及ぶ集落遺跡(埋蔵文化財調査事務所のHPで現説資料が読める)。

西隣のずえが谷遺跡の住居跡からは5世紀前半の初期須恵器(TK73型式)が出土している。5世紀後半(TK23併行様式)の須恵器を副葬するずえが谷7号墳からは、珍しく鋸(のこぎり)が出土した。

6世紀初頭には、丹波地域に横穴式石室が導入された初期のもので篠山では最古になる灰高(はいだか)1号墳が築造され、灰高古墳群・ずえが谷西古墳群と7世紀前半まで継続して築造・追葬(ついそう)が行われている。

これらの古墳群と関連するとみられる集落である灰高遺跡では、9棟の竪穴住居跡に造りつけのカマドがみられ、うち時期が7世紀まで下る1棟では煙道が壁に沿って住居外に延びるL字形カマド(オンドル状遺構)であった。L字形カマドは北側の佐仲峠を越えた梶原遺跡(氷上郡市島町)でも調査されており、由良川水系との交流も考えられる。

この遺跡群では、初期須恵器や初期の横穴式石室などが渡来系集団との関係を推測させ、L字形カマド(オンドル状遺構)はそれをより明確にする遺構といえる。

 

篠山盆地西北部の遺跡

● 猫 谷 窯 跡(旧丹南町一印谷)

篠山で有名なものといえば、近世では立杭焼・篠山城、中世では丹波焼・東寺の大山庄、古代では雲部(くもべ)車塚であろうか。

 

<図省略>

 

百合文書(ひゃくごう・もんじょ)でよく知られる東寺領・大山庄へも氷上郡との境、鐘ヶ坂峠手前まで行ってみた。圃場整備に伴う調査により中世の遺構が多く出土しているが、古代山陰道の遺構は検出されなかった。

大山川の右岸(南岸)になる波賀尾岳から派生する丘陵にはおおよそ76基の古墳が散在するそうである(『兵庫の遺跡』)。

左岸(北岸)の一印谷には篠山盆地最古の須恵器窯が確認されている。窯本体の調査は行われなかったが、灰原、掘立柱建物2棟などが発掘され、5世紀後半から6世紀初頭(TK47併行)の窯跡とされる(『長者ヶ谷1号墳』西紀(にしき)・丹南町教委 1989)。

この時期は須恵器窯が地方に広がる段階とされ、中央から技術者が派遣されることにより窯が成立するといわれる。この時期の須恵器工人は渡来系工人か、彼らの影響下にあった倭人であったと思われる。

 

● 峠尻2号墳、西木之部遺跡の土馬

東寺領大山庄から推定山陰道を東へ向かう。途中、長安寺集落の裏山には、金銅装冑・金銅装馬具が出土した峠尻2号墳がある。全長約30mの前方後円墳。側壁に板石を使い、持ち送りは強く、天井石は一枚で、河内にみられる初期の横穴式石室と共通する特徴をもつとの指摘がある。6世紀前半代と推定される首長墳である。現在、石室には入れない。遺物は残念なことに散逸したらしい。

西木之部(にしきのべ)遺跡は舞鶴道西紀SAのため調査された。奈良〜鎌倉時代にかけて営まれた集落遺跡で、多紀郡河内郷の役所(郷家)や、宮田庄に関連する施設と想定されている(『西木之部遺跡』兵庫県教委 1993)。

平安時代以降、このあたりは摂関家領宮田庄に属し、隣接する大山庄との用水相論・境相論が絶えず、中世文書が多く残った。

西木之部遺跡からは、「馬の喉首部をヘラ状工具で一突きにし、殺馬を表現した」土馬の出土が注目される。「土製馬は遺構から出土していないので、その年代は限定できないが、形態からみるかぎり馬の飾り表現が写実的で古式の様相」を呈している(大平 茂「考古学上から見た馬の祭祀」『絵馬』普及資料6兵庫県立博物館 1986)。

この土馬の出土は、殺馬の習俗をもつ集団の後裔の存在を想定させ、また、具体的な殺馬の様子をうかがう貴重な遺物といえる。

 

● 加耶系集団の墳墓群か

大師山6号墳 鉄廷・鉄釧・サルボ?

 宮田1号墳  耳杯・銅釧・金製耳環

篠山盆地西北部、南流する宮田川が形成した狭小な河谷平野周辺には特異な遺物や装飾大刀をもつ古墳群が集中するが、なかでも、大師山6号墳・宮田1号墳は特筆される(『大師山6号墳・宮田1号墳 発掘調査概要報告書』西紀・丹南町教委 1993)。

大師山・宮田古墳群は、1987年、舞鶴道関連調査に従事する県教委職員により、周辺踏査の過程で確認された。現地は大師山遊歩道によって破壊された古墳からの多量の遺物が散乱した状況であった。

大師山古墳群は宮田川左岸の丘陵の舌状尾根上に列をなして築造されており、加耶系集団の古墳群といわれる福岡県甘木市の池の上・古寺墳墓群を髣髴とさせる立地である。9基のうち3基はほぼ無傷で残り、半壊した6号墳の調査が行われた。

大師山6号墳は標高294m前後の痩尾根に、自然地形を利用して造られている。主体部は上下二段の墓壙(ぼこう)で、下段に長さ4mの割竹形木棺が直葬されていた。

 

<図省略>

出土遺物は、鉄てい(金+廷)約10、鉄斧2、鉄鏃3、鉄鎌2など鉄器類と、鉄釧2、珠文鏡1、勾玉など装飾品類だった。

鉄ていが出土した古墳は県下にわずか4例のみで、リング状の装身具・鉄釧(くしろ)については初例かもしれない。金属製の釧は渡来系集団と関連する遺物とみなされている。

鉄斧は共に10cm前後のミニチュアであり、幅広のものは韓国でサルボと呼ばれる農具を儀器化したものであろう。漢字では「さん(金+産)」と表記されるらしい。もう一つの鉄斧も韓国での出土ならタビといわれるかもしれない形態である。

宮田古墳群は大師山古墳群とは尾根は異なるが遊歩道でつながる。8基のうち半壊した1号墳が調査された。2〜8号墳は低墳丘あるいは墳丘の確認が困難とされる。

墳丘の規模は10X13mの楕円形、埋葬主体は箱式木棺の直葬(ちょくそう)。

出土遺物に、耳杯(じはい)1、金製耳環2、銅釧1、小型倣製鏡(ぼうせいきょう)1、紡錘車(ぼうすいしゃ)1、玉類がある。

耳杯は角杯(かくはい)と同じく儀礼用の酒器と思われ、極めてまれな異形須恵器である。

 

大師山・宮田古墳群の遺物については、外護列石、L字形カマド(オンドル状遺構)などと共に、次号で再度取り上げたい。

 

むくげの会むくげ通信総目録