『むくげ通信』181号、2000.7.30

偽史朝鮮/王仁の墓地と生誕地−並河誠所と金昌洙
金 英 達

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この小論は、金英達さんがことし1月25日のむくげの会例会で発表した「並河誠所と金昌洙−“王仁の墓”と“王仁の生誕地”をでっち上げた二人の妄想」のレジュメを文章化したものです。レジュメは几帳面な英達さんらしく、そのままつなげていけば文章になるもので、簡単な接続詞を入れたり少し並べ替えた以外、ほとんど手を加えていません。丹念に原史料にあたる英達さんの研究姿勢がしのばれます。本来なら、通信の前号で1ページで書かれる予定のものでした(180号編集後記参照)。(堀内)

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(1)王仁について

王仁(和爾吉師)は、古代の「記紀」などの文献によって、4世紀末から5世紀初めに百済から渡来したと伝えられている人物。すこし後代の文献には、王仁=新羅人説もみられる。考古学上の史料は一切ない。朝鮮においては、文献資料も考古学資料にも登場しない。
 今のところ、その実在性は証明されておらず、伝説上の人物と見るべきである。現在の学説では、古代朝廷において文書を司った西文(かわちのふみ)氏一族の祖先を立派に見せるために創作した伝承であろうとみている。ともあれ、朝鮮半島からの先進的学問の渡来の事実を人物として象徴化された存在である。
 文献に王仁が出てくるのは『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』、『古今和歌集』である。『古事記』では、「応神天皇の時に渡来して『論語』10巻と『千字文』1巻を天皇に献上した」とある。しかし、『論語』は巻数が多すぎ、『千字文』は6世紀前半に作成されたもので、つじつまが合わない。日本に漢字・儒教をもたらしたのは百済の武寧王による五経博士と見るべきであるというのが通説である。
 『日本書紀』には、「応神天皇が百済に使者を遣わして日本に迎えた。渡来後、太子の師として典籍を教えた」とあり、『続日本紀』には「日本が百済に使者を遣わして文人を求めてきたので、百済王が王仁を派遣した。王仁の子孫が文首(書首、ふみのおびと)である西文(河内文、かわちのふみ)氏となった。ちなみに、西琳寺跡がある古市が西文氏の本拠地とされている。
 『古今和歌集』には王仁の作として「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花」の和歌がある。この歌は、難波京で即位した仁徳天皇への讃歌であるとされている。また、この歌は古来より和歌の手本とされ、そこから王仁を和歌の祖であるとみる向きもあった。
 一方、摂津、河内、和泉の各地に、王仁を祭る墳墓、王仁ゆかりの寺など、王仁に関する伝承地が散在している。段煕麟『大阪における朝鮮文化』などを参照してそのいくつかをあげてみると次の通りである。
 @大阪市大淀区大仁町の「大仁」は「王仁」の転字であり、その地の八坂神社の裏の一本松稲荷大明神は王仁の墓と伝えられ、「王仁大明神」とも呼ばれていた。
 A大阪府高石市の高師浜の高石神社は、『和泉名所図絵』に「高志の祖、王仁を祭る」とある。
 B大阪府松原市岡にある弁才天堂の地は王仁の聖堂の址と伝えられる。
 C大阪府堺市三国ヶ丘には、もと東原天主社があって王仁を祀るとされ、後に旧郷社方違神社へ移転合祀された。
 D奈良県天理市和爾町の「和爾」の地名は、王仁の子孫の居住地に由来するものという。
 こうした文献や伝承から、王仁の人物像として二つの歴史的イメージが浮かび上がる。一つは「帰化人」、すなわち日本の天皇の徳を慕って日本に帰化した朝鮮人の代表というイメージであり、今ひとつは、日本を文明開化させた儒教・学問・和歌の祖(神様)というものである。前者の歴史的イメージは、明治期の天皇制確立政策や昭和期の「内鮮一体」政策に利用され、後者は韓国人の日本に対する文化優越史観−実際は文化的コンプレックスの裏返し−に利用されている。
 こうした歴史イメージの政治的利用・時代的風潮への悪乗りにより、さまざまな歴史の偽造が行われている。その具体的産物が、大阪府枚方市の王仁の墳墓であるとする「王仁塚」であり、韓国の全羅南道霊岩郡の王仁の生誕地であるとする「王仁廟」である。「王仁塚」の造作者は、江戸時代中期の儒学者であり、地誌編纂者である並河誠所(1668-1738)で、「王仁廟」の造作者は、韓国の農民運動家で国会議員にもなった金昌洙(1901-?)である。

 (2)枚方市の「伝王仁墓」(王仁塚)について

江戸時代の中頃、北河内の藤坂村の御墓谷という所に、村人から祀られている「オニ塚」と呼ばれる自然石(何も刻まれていない)の立石があった。この塚は、お参りすると歯痛が治るという“おまじない”の対象であったという。また、平安時代に坂上田村麿が奥羽地方へ「蝦夷征伐」に行き、蝦夷の酋長2人を生け捕りにして京都へつれてきたが、帰順しないので藤坂で打ち首にして埋めた塚との説もある。
 1731年(享保16年)、京都の儒学者・並河誠所(並川五一郎、並河五市郎)が『五畿内志』編纂のために名所旧跡を探訪中、禁野の和田寺で「王仁墳廟来朝紀」という古記録を見つけ(現存しておらず、写本と称するものが伝えられている)、この地を踏査して藤坂村の自然石(オニ塚)に出会い、さしたる根拠もなくこれを王仁の墓であると断定して、地元の領主(久貝因幡守正順)に進言して「博士王仁之墓」と刻んだ墓石を建立させた。
 並河誠所は、地誌編纂調査事業は幕府の命によるものであり、古書探索や建碑について江戸町奉行の大岡越前守忠相のお墨付きの証文を携えていた。つまり、彼は幕府の権威を背景にしてフィールドワークをしていたわけである。したがって、地方の領主といえども彼の進言に逆らえなかったのではあるまいか。
 これは、一学者の願望・思いつき・功名心による歴史の捏造であり、幕府の権威を嵩にかけた強引な碑の建立であった。なお、「王仁墳廟来朝紀」なるものは、河内周辺にたくさんある王仁伝承の一つであろう。
 1827年(文政10年)、枚方招提村の家村孫右衛門が王仁博士を顕彰するため、皇族の有栖川宮の筆になる「博士王仁墳」の碑を建立、皇室の権威を利用し捏造された歴史が権威付けされ増幅していく。
 1894年(明治27年)には墓域拡張工事が行われ、1899年(明治32年)には仁徳天皇1500年祭の附祭として王仁墳墓の大祭典が行われた。明治の王政復古のなかで、日本に帰化し天皇家に仕えた国朝文教の祖として王仁が近代天皇制確立の過程で政治的に利用されたのである。
  昭和にはいると天皇制国家主義者らの団体による王仁の顕彰運動が起こり、戦時期には「内鮮一体」を標榜する朝鮮人公民化政策に利用される。その一連の動きは以下のとおりである。
 1927年、王仁神社奉賛会(副会長・内田良平)結成
 1930年、王仁神社建設の地鎮祭挙行
 1938年、大阪府が「伝王仁墓」として史跡に指定
 1940年、王仁博士顕彰会が東京の上野公園に「博士王仁碑」を建立
 1941年、王仁神社建設の第一歩として王仁墓に玉垣を造営
 1941年、王仁博士顕彰会が東京の上野公園に「博士王仁副碑」を建立
 1942年、大阪府協和会が王仁神社の建設を決定(戦争のため計画中断)
 戦後になると“善意な”日本人の協力者が登場、歴史の検証なしに韓国人の民族意識をくすぐる“韓日友好親善運動”に利用される。すなわち、1984年、王仁祭が開催され毎年11月3日に年中行事化する。1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足、墓域の清掃、むくげの植樹、四天王寺ワッソへの参加、韓国との親善交流などの活動を展開する。さらに1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・トイレ・祈念碑などが建設された。同年、韓国全羅南道霊岩郡が枚方市に友好都市提携を申し出た(枚方市は保留中という名目で体よく断っている)。
 この枚方の「伝王仁塚」は、近世・近代版“王仁伝説”の遺跡というべきものであり、この新しい“王仁伝説”の信仰者たちの聖地と考えればよい。

(3)韓国の全羅南道霊岩郡の「王仁廟」について

1968年、韓国の農業運動家の金昌洙が、韓国の農業協同組合育成のために日本の農協の視察のため訪日し、各地の農村を回るうちに日本における王仁の遺跡や王仁の後裔と称する人たちを知って、electric revelation(電撃的掲示)を受けた。彼は1970年再度来日し、日本の各地の王仁関連の史跡を調査、その子孫たちの証言を聴取し、各種の史料を収集した。
 帰国後、民族史観を定立するために王仁研究所を設立。そして、韓国において王仁を最照明し王仁研究に火を付け、王仁の出生地を探し当てるために、『中央日報』紙上に「百済の賢人博士王仁の偉業−日本に植え付けた韓国魂−」を1972年8月から10月までに15回連載した。
 1972年10月、新聞連載をみた全羅南道霊岩郡の姜信遠から「霊岩郡一円に王仁博士の遺跡と伝説が多い」との手紙を受け取る。直ちに地元有志とともに現地調査をして「霊岩郡鳩林面聖基洞がまさしく王仁博士の誕生地だという心証を固めた」。1973年3月と10月、著名な歴史学者を帯同して現地を踏査して「王仁の誕生地は霊岩に違いない」ということに意見の一致をみた。
 1975年、全羅南道知事が博士王仁誕生地聖域化事業計画を発表。翌76年、全羅南道が霊岩郡鳩林面聖基洞一帯を「王仁博士誕生地遺跡」として地方記念物に指定し、王仁廟を建設。以後、霊岩を「王仁博士の故郷」として売り出し、周辺を遺跡公園として観光地化し、王仁廟春季大祭や王仁文化祝祭を行事化していく。
 韓国においては、王仁に関する文献史料も考古史料もない。1939年の日本での王仁追慕碑建設運動では、王仁の生誕地は扶余だとされていた。百済出身だから百済の王都の扶余だろうという単純幼稚な発想である。1970年代になって韓国で、金昌洙の妄想がきっかけになって、霊岩が生誕地だとされるようになった。その根拠は、霊岩に王仁に関する伝説があるということだけだが、科学的実証性に全く欠けるものである。道銑国師(新羅末の名僧)らの伝説や地元の遺跡を無理矢理にこじつけたもので、枚方の王仁塚をはるかに上回る大々的な歴史の捏造が公然と行われている。
 いずれにしても、日本の記紀の記載にもとづいて、日本の文化を開明した人物がまさに韓国人であったとの民族主義的思考が先行しているように思われる。しかし、ここまでくると、もはや王仁廟がでっち上げだと言おうものなら袋叩きに遭いかねない雰囲気である。

(4)「左翼小児病」か「右翼成人病」か

韓国人サイド主導の王仁顕彰グループは、王仁の枚方墳墓説・霊岩誕生説への学問的批判に対して、韓日友好の歴史モニュメントを否定する「左翼小児病」であると非難している。しかし、実証なしに歴史をでっち上げ、都合のよいように政治利用する側こそ、民族主義・国家主義的偏向によって理性に動脈硬化をおこしている「右翼成人病」ではないか。
 伊豆七島の神津島の「ジュリア・おたあ」の墓のでっち上げと韓国キリスト教グループによる「ジュリア祭」の開催、北朝鮮における「壇君」の遺骨のでっち上げと「壇君陵」の建設なども、「右翼成人病」の例であろう。
 以上、歴史偽造のパターンを分析してみると、まず、ある学者(一定の政治力のある自称学者)の思い付き、功名心と情熱があり、ついでそれを支える時代的風潮と運動や事業に利用しようとする政治勢力の存在、そしてとにかく碑や建物を建て、行事を挙行して既成事実化してしまう−ということになるだろう。

<参考文献>

むくげの会『むくげ通信』総目次