『むくげ通信』178号(2000年1月30日)

フィールドワーク参加の記

舞鶴の朝鮮人強制連行を訪ねて

堀内 稔李秉萬さんの説明を聞く参加者、海軍の特設防空指揮所跡

 1999年12月25日正午、京都府舞鶴市の市役所近くの小さな喫茶店に、兵庫、高槻、広島、岐阜、名古屋、京都それに地元の舞鶴からの20数名が集まった。目的は「舞鶴朝鮮人強制連行地下工場跡等・フィールドワーク」。名古屋・岐阜グループの提案を受け、兵庫朝鮮関係研究会の鄭鴻永さんが中心となって企画されたものだが、鄭鴻永さんは通風が悪化したとかで不参加。その後年が明けた1月18日、帰らぬ人となられた。骨髄異形性白血病だったという。ご冥福をお祈りする。

 私が兵庫グループ5名の一員として参加したのは、舞鶴が私の故郷であったことと、何年も前から鄭さんに是非行こうと誘われていたからだ。当日、各地から集まったグループの中には、毎年夏に開かれている朝鮮人・中国人強制連行全国交流集会で、すっかり顔なじみとなったメンバーも多い。鄭さんはこの全国交流集会の発案者でもあった。さぞかし心残りであっただろう。

 舞鶴市は西と東に分かれており、西は城下町、東は明治以後軍港として発達した。碁盤の目のようになった東舞鶴の通りの名前は、南北は一条、二条……だが、東西は八島、敷島、朝日、三笠というように明治時代の軍艦の名前が付いている。朝鮮人が強制連行された地区も、ほとんどが軍港だった舞鶴東地区にある。

 喫茶店でそれぞれのグループが紹介されたのち、関係資料が配布され、この企画の提案者でもある岐阜の辻田さんが、簡単に行動予定を紹介。自衛隊服を上着代わりにまとった辻田さんは、10回以上も舞鶴へ現地調査に来ている戦争遺跡研究のベテラン。自衛隊服を着ていると、門衛などが勘違いして自衛隊の敷地に入れることもあるから便利とのこと。戦争の遺跡そのものを調査するグループと、労働力不足の当時、その建造物が誰によってつくられたかを調査するグループが協力しあえば、いい結果が出るとも指摘する。

まずは、集合した喫茶店のすぐ近くにある海軍の特設防空指揮所跡を見学。「東山の山腹をくりぬいて作られた地下の指揮所で、奥行37メートル、幅16メートル、高さ9・5メートルの巨大な地下ドーム。1941年から3年がかりの工事で、体育館ほどの空間に木造2階建ての防空指揮所が作られ、敗戦までの1年間実際に使用されていた」。何年か前にこの防空指揮所跡を調査した京都の水野さんが説明してくれる。ここは小学生時代の遊び場だったところで、私にとって非常に懐かしい場所だ。40数年ぶりにトンネルにも入ってみた。当時の記憶ではもっと大きいイメージであったが、案外小さい。山の裏側からは指揮所の奥まで入れるそうだが(この日は山の裏側に通じる道が柵で閉されていたので入れなかった)、「正面」からだとトンネルが崩落していて少ししか入れない。子供の頃は山の裏側にも入り口があることは知らなかった。「保安庁の山」で通っていたここの正式名称が、東山であることも今回初めて知った。山の半分を削って海を埋め立て、フェリー乗り場にしてしまったため、昔の山の面影はない。

海軍の特設防空指揮所跡

 次に車に分乗して浮島丸殉難者追悼の碑へ。碑は東山からだと袋状になった湾のちょうど対岸にあたる佐波賀(さばか)にある。最近、舞鶴湾の先端に火力発電所を建設中で、佐波賀へ向かう道路は大きな橋ができたり、トンネルができたりでしているが、碑は海岸沿いの曲がりくねった細い道路の一角にある。目の前に浮かぶ島は蛇島(じゃじま)と烏島(からすじま)。無人の小さな島だが、これらの島と佐波賀の浜の中ほどで青森県大湊から4千人近くの朝鮮人労働者を乗せて入港した浮島丸が沈没、多くの犠牲者を出した。1945年8月22日のことであった。沈没の原因には機雷説と自爆説があり、いまだにナゾとされている。

浮島丸殉難者追悼の碑を案内していただいたのが、地元の李秉萬(り・びょんまん)さん。李さんは私とは反対に、20年ほど前に神戸から舞鶴へ移り住んだ。舞鶴へ移ってすぐに浮島丸のことを知り、以来、浮島丸の生存者や関係者を捜すなど、その調査活動に孤軍奮闘されている。最近は東舞鶴の市内に100円ショップを開いたとのこと。「70にもなって新たな商売に手を出すなんてと笑われるけれど、何かしていないと……」と語る李さん。まだまだ元気だ。

浮島丸殉難者追悼の碑

 浮島丸殉難者追悼の碑を見ている間に、名古屋・岐阜グループは舞鶴湾の先端あたりにある葦谷(あしだに)砲台の調査に向かう。案内できるかどうか確認するためであるが、「まよった末に砲台には行き着いたものの、みんなが見学するのは無理」という報告が入る。こういうときに携帯電話は便利だ。結局その日は、平(たいら)桟橋の近くにある引揚記念館を見学して終わることにする。葦谷砲台については、あとで民宿のテレビでデジタルカメラで撮影した画像を見ながら説明してもらった。

 私にとって引揚記念館の見学は2度目。10年ほど前帰省の折に初めて見たときは、戦争被害の展示ばかりで加害を説明するものがないと嫌悪感すらおぼえたが、こんどはもう少し冷静に見ることができた。それでも、ここの展示を見てロシア人に対し反感を持つ若者もいるとの話を聞き、「やっぱり」と思わないではいられない。

 市内には、数日前に降った雪がまだとけずに残っていた。福井県側にある民宿へは峠を越えなければならない。地元の金正一(きむ・じょんいる)さんの情報では、峠は滑りやすく危険だという。しからばと、民宿の送迎バスに迎えに来てもらった。舞鶴から東へ車で20〜30分走ると福井県だ。

民宿「由幸(よしこう)」は海のすぐ端にある。窓からは遠く高浜原発の明かりが見え、少し不快な感じだが、夕食のカニ料理はすばらしかった。李秉萬さんの知り合いが経営する民宿だからサービスもあったのだろう。カニの刺身からはじまって茹、焼、蒸、鍋とフルコース。カニアレルギーだという岐阜・名古屋グループの1名を除き、ゲップが出るほどカニを堪能した。カニ料理が口に合うかどうかと思っていた米国からの留学生のクリスティンさんも、おいしそうに食べていた。

海軍第三火薬廠跡、立派な施設が残っている

 翌朝は雨。と思っていたら次第にみぞれに変わる。峠付近は雪で、舞鶴自動車道は雪のため不通との暗いニュースも入る。雪の中、民宿の送迎バスで東舞鶴の市内へ向かうが、車内で名古屋・岐阜グループが見学予定になっている倉梯(くらはし)防空砲台の概要について説明してくれる。舞鶴に地下工場がほとんどなかったのは、周囲の山の山頂に設置された強力な防空砲台と、対空砲を持った停泊中の駆逐艦が存在していたからだろうと推測されているが、倉梯砲台もそうした砲台の一つ。陸軍では高射砲、海軍では同じものを高角砲と呼ぶ。間違えると自由主義史観論者などから、論文全体が信用できないという論法でこられるから、注意するようにとの指摘もあった。海軍の高角砲は陸軍のものに比べると優秀で、B29爆撃機でも打ち落とせるほど高いところまで届くとのこと。あとでこのことを私の母親に話したら、空襲のことを記憶していた母は、「そんなんちっとも当たらなかった」という。

 前日の喫茶店の近くでそれぞれの車に乗り換え、とりあえず海軍第三火薬廠跡へ向かう。第三火薬廠は、海軍の爆弾、機雷、砲弾などが生産された舞鶴地区では最大規模の軍需工場。舞鶴高専南側には洞窟式火薬庫があり、今でも入口の鉄扉とダイヤル式錠が当時のまま残る。この火薬庫は舞鶴でももっとも雪が多いといわれる朝来(あせく)地区にある。朝から降り出した雪はたちまち6、7センチほどつもった。家族で来ていた水野さんの幼い息子の瞭くんは、喜んで雪の上をとび回っていたが、普段の革靴姿の私には難儀なことこのうえない。長靴と懐中電灯というトンネル調査の必需品に、無頓着だったむくいだ。この調子で山の山頂にある倉梯砲台に登ると「八甲田山」になりかねないと、倉梯砲台行きは中止。代わりに中舞鶴の共楽公園にある空襲犠牲者の碑を訪ねることになった。

この碑は当時海軍工廠(現在は日立造船)で働いていて、1945年7月29日の舞鶴空襲で犠牲になった84人を追悼するために建てられたもの。前日もらった資料には、この空襲の体験者の証言を載せた新聞記事が入っている。それによると防空壕に待避したとき、壕の中で「アイゴー、アイゴー」という泣き声を聞いたという。84人の名前を見ていくと、金山秤鉉、三共相萬、柳鉉昌と3名の朝鮮人らしい名前を見つけることができた。

傘の先の右5,6人目に「三共相萬」の名。

 今回の公式スケジュールはこれで終わり。午後から仕事があるという西舞鶴の金正一さんがまず別れを告げ、あとはそれぞれのグループの自由行動となった。名古屋・岐阜グループは、日曜日には市民へのサービスとして護衛艦が見学できるという情報を残して、さっそく護衛艦見学へ。私たち兵庫グループは、行動の拠点となった最初の喫茶店で、舞鶴自動車道の通行止めが解除になったことを確認した後、高槻、京都のグループと行動を共にし、出石そばを食べ(なぜか舞鶴で出石そば)、そのあと護衛艦を見学した。見学したのは「たかつき」という護衛艦。市民への公開は恒例になっているのだろう、手慣れた説明員がユーモアたっぷりに艦船の装備について説明してくれた。ちなみに、自衛隊には護衛艦以外の艦船はないのだそうだ。

護衛艦が停泊している湾の向かい側は日立造船である。その敷地内に遠くからではあるが、トンネルの入り口が見える。どうやら戦争遺跡の一つらしいが、造船所の敷地には入れない。まだまだ調査すべき対象は多いと感じる。

「たかつき」高槻のメンバーも行った「たかつき」

舞鶴自動車道が通れるということですっかり安心した兵庫グループは、まだ時間に余裕があったので煉瓦博物館を見学、午後3時頃神戸への帰路についた。

むくげの会『むくげ通信』総目録