『むくげ通信』178号(2000年1月)

鄭鴻永さんの死を悼む
飛田 雄一


1997年11月『歌劇の街のもうひとつの歴史
−宝塚と朝鮮人』出版記念会で、奥様と。

 去る1月 18日、鄭鴻永さんが亡くなられた。70才、骨髄異形性白血病であった。昨年11月から持病の痛風により入院中であったが、再検査の結果白血球の減少が甚だしかったとのことだ。昨年12月25〜26日の朝鮮人強制連行舞鶴調査は鄭さんが計画し、カニ料理とともに楽しみにしていたところだった。その2、3日前に「飛田さん、行けなくなって面倒をかけるけれどよろしく」という病院からの電話が私の聞いた最後の鄭さんの声だ。

 鄭さんとむくげの会は本当に親しい間柄だった。サラムサラムで登場してくださったり(142号)、「むくげグルメ」でも初期の頃に鄭さんの経営する焼肉屋「紅梅苑」に出かけている。

 兵庫朝鮮関係研究会の中心的なメンバーのひとりだが、なにより「朝鮮國獨立」の文字が残る西宮市甲陽園の地下壕の発見者として知られている。西宮、宝塚、伊丹等の在日朝鮮人の歴史を精力的に研究されており、そのトンネル発見も以前から「米軍戦略爆撃調査報告書」の記述を調べていてその地域の新たな宅地開発の知らせを聞いてかけつけたので発見することができたというものである。『歌劇の街のもうひとつの歴史−宝塚と朝鮮人』(1997年、神戸学生青年センター出版部)は鄭さんのライフワークのひとつであった宝塚の在日朝鮮人史の集大成である。自身の原稿を自らワープロに打ちなおし、練り直して仕上げられたものだ。

 鄭さんは1929年慶尚北道尚州郡生まれの在日朝鮮人一世だ。私たちからはだいぶ年長の大先輩になるが、鄭さんが先輩面するようなふるまいは一度も見たことはない。年齢を越えてまさに“仲間”であった。

1990年から昨年まで10回開かれた「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」も言い出しっぺのひとりが鄭さんだ。毎年参加され、全国の仲間のまとめ役だった。議論が白熱しややこしくなった時も鄭さんのユーモアたっぷりの弁論で前進、ということもしばしばだった。鄭さんが現地調査に行ったことが契機となって地元のグループができ、交流集会にも参加するようになったようなケースもある。

長野での交流集会が終わった後、松本里山辺のトンネルをいっしょに調査したことがある。崖の中ほどにある入口めがけて決してスマートとはいえない体でどんどんと登っていく鄭さんの馬力にはみなびっくりしたものだ。

お葬式のとき歌が披露された。鄭さんが歌詞をつくり、地元の高校の先生がそれに曲をつけたものだ。在日の思いをせつせつと綴ったものでメロディーもとてもよかった。

まだまだいっしょにやりたいことが山ほどあった鄭鴻永さんの死のショックは大きすぎる。が、そんなことばかり言っていると「飛田さん、なにしとるんや」という、にこにこ顔の鄭さんの声がきこえそうである。ご冥福をお祈りいたします。

むくげの会『むくげ通信』総目録