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「いかり」第2号/2000年6月25日
神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会ニュース
〒657-0064 兵庫県神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内
TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878 E-mail rokko@po.hyogo-iic.ne.jp
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いよいよ現地調査が始まります

「調査する会」は昨年10月の発足以来、神戸港に強制連行された朝鮮人・中国人の調査活動を進めています。日本人関係者に面接し、文献を探し、また生存者・遺族の所在を本国に問い合わせるなどの活動です。そして今年の夏から秋にかけて、中国・韓国に調査団を派遣して生存者の聞き取り調査等をすべく準備を進めているところです。
 中国関連では後述の張忠杰さん等のご努力により数名の生存者が明かとなっており、韓国関連では本号レポートのように韓国面事務所等への問い合わせに対して生存者・遺族の情報が寄せられています。
 去る4月4日には、神戸学生青年センターで中国河南省より張忠杰さんをお迎えして講演会を開きました。張さんは今回、大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会の招きにより来日されました。本号のニュースに、大阪での講演もあわせた形で記録を掲載しました。是非ごらんください。張さんは、父親が大阪・安治川に強制連行された方で、自身が父親の遺志を受け継いで強制連行の生存者からの聞き取り調査をされています。今後の「調査する会」の活動に大きな示唆をくださいました。また私たち「調査する会」が発足させるきっかけを作ってくださった櫻井秀一さんの同講演会での講演「大阪港を中心とした中国人強制連行調査の現状」は神戸港への強制連行が全国での調査活動のなかでどのような位置を占めているのか、という点について明らかにしてくれました。
 また張忠杰さんの来日にあわせて4月1日〜2日にかけて「港湾会議」が開かれました。この会議は中国人強制連行を調査しているグループのうち特に「港湾」に関係するグループが時々集まって情報交換をしている会議です。新潟、七尾(石川県)、大阪、神戸より参加しています。今後も各地の調査グループと連携をとりながら活動をすすめていきたいと思います。(事務局長・飛田雄一)

張忠杰さん講演会/中国河南省における強制連行

私は河南省の原陽県の人間で、自宅で労働問題に取り組んでいます。日本での強制連行された人たちを代表して挨拶させていただきます。

新華院から大阪の安治川へ

父親のことについて話します。
 1944年7月に原陽県でつかまり、青島から山東省済南の新華院という捕虜収容所に入れられ、食べる物も、着る物もほとんどなく、日本の人に痛めつけられました。そして、「これから日本の東京に移す」といわれました。なかには喜ぶ者もいました。「こんな辛い仕事から放免される」と思ったから。しかし、一つの困難が終わったら、次の困難が始まるということです。玉蜀黍の粉で作ったこぶし大のマントウを毎日一つずつ与えられただけでした。その後、7日7晩かかって日本の九州に着き、小さな船に乗せられて大阪へ来ました。上陸するときに服を全部脱がされて「消毒する」ということでした。
 父親は第4隊に入れられました。安治川でやらされた仕事は、大部分は石炭の荷役で、35〜40s前後を、ひどいときは70〜80sを運ばされるきつい重労働であったにもかかわらず、毎日小さなマントウ一つ、それが毎日10時間という労働でした。父以外の沢山の生存者から聞いたが、飢え死にしたり、凍え死んだり、監督に殴られて死んだ者もいたということです。夜寝るときにも表に監督が見はっていました。逃亡するのを恐れていたのです。
 1945年8月15日を迎えました。午前中ある日本人で、中国語もうまくない人がやってきて「もう働かなくていい」といわれましたが、「働かないとひどい目にあわされる」と思って働いていますと、ほかの所で働く中国人から、「日本が投降したから働かなくていい」といわれて大変うれしく思いました。それから、大阪から天津へ船で帰りました。

体をこわし苦しい生活

父親が働かされたとき、祖父も祖母もどこに行ったかわからないので、あちこち尋ねていくと、日本人に連れて行かれたと聞いて祖母は毎日泣き暮らし、目が見えなくなってしまって、それからまもなく死んでしまいました。
 父親が帰ってから部隊(八路軍)に参加したが、体をこわしていたので部隊から3ヶ月かかって故郷に帰りました。1960年に結婚し、63年に姉が、66年に私がうまれました。しかし、私たちを育てるのはすべて母親に移っていました。というのは父親は日本から帰って体をこわしていましたから。船底から石炭を揚げるときに埃が体に入り、痰を出すと真っ黒になっていたといいます。肺がかなりいたんでいるということで医者の証明をもらい、生産隊の証明を出してもらい、そこから金をもらって生活をしていました。私は父親が体をこわし、治療代も沢山かかるということから、物心ついたときから働いて金を稼いでいました。80歳前後の祖父もいましたし、姉は学校を続けられずやめるという厳しい状態でした。姉も適齢期になり、1982年に結婚して家を出ていきました。父親の世話は私と母の二人でみるほかはありませんでした。84年10月に私も結婚しました。その日のことは一生忘れられません。というのは、その日の4日後に父親が病院に入院しなければならかったからです。病院でX線をうつしてみると、肺に大きな空洞があり、それが更に拡大しているということでした。40日ほど肺結核で入院して病状が治まりましたが、引き続き入院すべきだったところ、経済状況が悪く、家へ帰って休むしかなかったのです。40日間の入院の治療だけでも当時の金で1万5千元かかり、知人から頼み倒してようやく借りることが出来ました。1988年に更に病が悪くなり、病院に入院させたところ、肺結核から肺気腫となり、心臓にも転移しているということでした。この2ヶ月だけでも2万元ほど借らねばならなくなり、前に借りた金も返しておらず、やむなく銀行から借りるということになりました。こうして沢山の借金取りが毎日のように私の家に押し掛けることになり、父親の治療代を稼ぐために私も出稼ぎに出て、建設の仕事に就かねばならなくなりなした。98年10月20日に更に病状が悪化し、その日の夜に永眠しました。 1984年から、父親の体の治療だけでも20万元の借金をしていましたので、銀行に借金を返すだけに追われました。
 私の働いているところは農場で、米か野菜を作るため、20歩(1.3ha)の土地を耕しています。母も病気がちで、子どもが13歳で学校も行かないで仕事を手伝ってくれています。9歳の女の子は学校に行けていますが、……

強制連行への取り組み

そういう苦しい生活のなかで強制連行の調査の取り組みを始めました。そのきっかけは93年ぐらいから華北大学が始め、その華北大学の先生からの手紙で原陽県に調査をしている人があると聞き、沢山の生存者があるということで、私はその現地で調査をすることになったのです。96年8月に10数人の生存者を連れて北京に行きました。大阪から「掘り起こす会」の人たちが来ていたものですから。その時大阪から、桜井さんとか村江さんとかいろんな人がいて、生存者から貴重な体験の話を聞きました。97年10月にも2人の生存者をつれて華北大学まで行き、調査する会の人と会って聞き取り調査に立ち合いました。98年に石川県の七尾という所から20数人の調査団が原陽県に来て、10数名の生存者に話を聞きました。99年8月に大阪の「掘り起こす会」の4名が原陽県に来て、父の墓に詣でてくれました。9月には私1人で北京に行き、朝日新聞の記者に落ち合って生存者の聞き取りを行いました。
 この8年にわたる調査から、大阪の安治川北口、七尾、神戸、新潟、北海道、長崎の大量の資料を作ることが出来ました。生存者の聞き取りのテープや写真を大量に持っています。こうした調査を一人の力でやっており、家計を多く圧迫しています。こうした経費は私に大きな圧力になっていますが、そう言いつつも私は調査活動は大切に思っていますから、そうした調査活動を続けていこうと思っています。
 右翼の勢力が歴史を改竄しようとする動きがあります。歴史的な事実を突きつけて闘っていこうと思っています。生存者や遺族がその調査に力を貸してくれています。生存者、遺族に日本の政府が謝罪することを望んでいます。

神戸の連行生存者

引き続き、神戸の生存者のことについて話したいと思います。
 神戸に連行されたコチュウサイという人の証言を紹介したいと思います。1944年、原陽県に働いていたときに日本軍に連行されて、彼以外に約300人の中国人が連行され、「国内の別の所で働けば給料を払う」といわれたが、結局だまされて、新華院から青島、日本の下関へ送られています。日本に行ってすぐ消毒させられます。「作業をしているのは女性であったが、『真っ裸になって消毒されるのは恥ずかしい』と言ったが、無理矢理消毒された」と言っています。彼の回想によると、300名が神戸に連行されると、3隊に分けられ、1,2隊の200名は七尾に転送され、彼の属する第3隊は神戸に連行され、第3隊の隊長はリンスーセンという人だったということです。彼らはすぐに神戸で労働させられました。荷役で、大豆や、鉄鋼、白桃を運ばされました。着ているものは、新華院で支給されたもののみで、神戸では何も支給されず、食べ物も粗末なもので、何度も暴行を受けました。宿舎のなかでも私語を厳禁されていました。入口で警官がいて、話をしている声が聞こえると、中へ入って来て殴りました。私語をしていると、逃亡を企てているととられていました。45年8月に中国へ帰ったときに妻は他に嫁いでしまっていました。帰ったときにはどこへ行ったかわからなかったのだから、家には老いた父親と2歳の子(嫁いでいった妻の子)がいました。若い時の重労働がたたって半身不随の状態になっていました。彼は日本の軍国主義によって日本に連行されたが故の後遺症だといっています。彼は幸いにして生きて国へ帰れましたが、帰国50年間は苦労のあいついだ生活でした。妻はよそへ行き、父は死に、当時2歳の子とのギリギリの生活でした。彼は50年にわたる苦労に対しては日本側は経済的措置を補償すべきだと証言書に書いています。
 最後に、日本に対して責任ある当局が謝罪し、損失については補償すべきだと言っています。
 次に、もうひとかたの人を紹介します。ハオブンランという人です。神戸にいたときのすべてのものを非常によく記憶している人です。彼はコさんと同じ隊に属していました。内容は同じですが、彼は非常に覚えがよく、当時覚えた日本語を記憶しています。彼らの細かい証言をテープに残しています。神戸の人たちに明日にでも整理し、残して帰りたいと思います。(神戸の証言は26人の調査で5人のみ生存、それ以外は遺族からの聞き取りです。)

朝鮮人調査班より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

韓国本籍地役場への照会回答状況/徐根植

神戸船舶荷役鰍フ朝鮮人労働者について、「厚生省調査報告」を手がかりに、韓国の本籍地の役場あてに照会文を郵送して、戸籍簿調査を通じて本人もしくは親族を捜す作業を2月から開始、27通発送した照会文のうち合計で7通の回答が得られました。
 このうち全羅北道金堤市龍池面事務所からの回答で李南淳(1927.1.25生)さんが生存されていることが確認されました。回答の多くは「住所を探すことができない」というものでしたが、錦山郡南二面、同郡福壽面からの回答では、本人は死亡しているが家族が残っているというのが4人ほどありました。
 また、金堤市からは9名の名前と住所ととともに次のような回答をいただきました。
 「私が戸籍を探すにおいて本籍とか戸主姓名を間違って申請された16部中9部だけを探して送付します。再確認後送っていただければ誠意をもってお探しいたします。送付した在籍謄本の中の生年月日とか番地が合わないものがありますが、なにかの参考になればと思い送ります」
 この回答に対し、次のような返書を送りました。

 金堤市市長貴下

 アンニョンハシムニカ
 地域経済の振興と住民の福利厚生に日夜、誠心誠意取り組んでおられる貴下に心より敬意を表します。
 公務多忙の中、私達の問い合わせに誠意をもってお答えいただいたことに心より感謝申し上げます。
 つきましてはご返答いただきました9名の戸籍名簿のうち8人の消息を、ぜひ知りたくてお手紙しました。
 姜判権、金基東、李永斗、崔永福、趙僖植、李元永、金良洙
 以上8人の現在の消息について調査をお願いします。
 調査団の活動に不備があり返答後の問い合わせが遅れましたがよろしくお願いします。
 今後、この金堤市の回答を待って、具体的な韓国での調査のスケジュールを立てていきます。

 元日中友好協会神戸事務局長・影井巳喜雄さんに聞く/上田 雅美

 1952年に日中友好協会神戸ができて、私は2代目の事務局長。遺骨調査の時は寺をいくつか回ったが、どの寺も責任追及を恐れて非協力的だった。
 調査の詳細な記録は残していたが、文化大革命をめぐる協会分断や震災でみななくなった。私自身は戦時中、中国にいたので神戸のことは直接知らない。遺骨調査では、相生造船所については私も出向いて市の墓地に埋葬された遺骨を掘り返したりしたが、神戸港関係の遺骨は見つからずじまい。神戸華僑聯誼会の陳徳勝さんも一緒にしたが、彼も亡くなった。奥さんがJR須磨駅前で本屋をしているはず。写真がどこで撮ったものかもしらない。戎井旅館の戎井隆寿さんも亡くなった。息子が諏訪山の方で豚まん屋をしているはず。
 戎井さんに生前、聞いた話では、夏に来た中国人は冬の着物がなかったので、ドンゴロス(麻袋−米や雑穀が100キロ入るもの)に穴を空けて頭から被りわらの縄で胴を縛っていた。配給食料は県や市の官僚などがピンハネしてしまって少ない。戎井さんは、17人の死亡は病死が多くなっているが、米軍の攻撃でなくなった人がもっといるはずという。港湾での労働中にグラマンの機銃掃射があると、日本人がいち早く逃げ、中国人は逃げさせないということがあったらしい。死者数も17人よりもっと多かったのではないか。
 私は戦時中、徴兵を逃れて中国にわたった。江蘇省淮陰(わいん)県で1942年から1943年にこんなことを数回見た。日本の軍隊や憲兵が4、50人の男たちを広場に集めた。地面に丸く縄を置いた内側に立たせてここから出るなという。男たちは何が起こるかもわからず、タバコを吸ったり、雑談をしている者もいた。集めた側も目的を知らない。やがて男たちはトラックに乗せられてどこかに連れて行かれた。その後、知り合いの中国人から「父が連れて行かれたまま戻ってこない。どこにいるか知らないか」と相談を受けた。
 当時の商工大臣岸信介は「中国人は風呂はなくていい。寝る場所は座して頭がつかえないくらいのスペースがあればいい」などと通達した。

資 料/「日中いくたニュース」第2号
このファシズムの残虐!/神戸港中国人強制連行事件の実態

かつて日・独・伊のファシズムは世界人民に大きな損害を与えましたことは言うまでもありません。
 特に私達が忘れてはならないことは、戦時中日本政府が国内労働力の不足を補うため四万人にのぼる非戦闘員の中国人を日本へ強制連行し、捕虜という名目で過酷な労働と、非人間的処遇で彼等を虐待し、多数死にいたらしめた国際法違反、人道無視の不正行為であります。
 兵庫県へも昭和十八年秋から十九年にかけて、これ等中国人が一千名以上も連行され、神戸港の荷役作業に、或いは相生市の播磨造船所に労役されていました。神戸港には約三百名が配置され、生田区北長狭通七丁目の戎井旅館(現在なし)をその収容所としていたのであります。
 私達は今、新しいファシズムの再生としゅんどうを感じ、三十年前の残虐を告発するものです。

私は証言する 戎井隆寿

中国人捕虜を神戸港の荷役に使いだしたのは昭和十八年の末頃でした。
 軍の命令で、私の経営する旅館が捕虜収容所として徴発されたのです。私の旅館は木造三階建、部屋数五十室のもので、徴発命令がくると直ぐ建具、畳等全部取り払われ、床にむしろを敷き、まこと空家同然の状態になり、中国人捕虜三百名程が入居し、憲兵隊の監視下に入りました。
 その待遇は目にあまるもので、特に食事ともなればひどいものでした。勿論当時は太平洋戦争の末期に近い時期ですから、日本人の生活とて不自由不自由の毎日でしたが、捕虜に対する給食を日本人監視員がピンハネするものですから彼等は一層空腹にさいなまれ青白い顔でガタガタふるえていました。就寝時ともなれば、布団とてなく藁むしろの上にごろ寝しドンゴロスやアンペラ類をかぶり過ごしていました。昼間の荷役労働のきびしさと、十分睡眠がとれないことから日と共に体力は弱り、病気も出て働くのにも大儀そうで、朝の出勤時になっても起き上がれない者もあったのです。やがて病気で死ぬものもありました。監視員は容赦なく牛馬のようにムチでヒッパタクので、同僚にささえられて港湾に出勤する病人も日にふえてきました。
 衛生状態が悪く、風呂に入れないので、その体臭は実にものすごく、近隣の人から苦情が出るほどで、何とも私達ですることもできません。
 空腹にたまりかねた捕虜は私達の台所にそっと入って来て盗み食いするものもありました。私の母や妻も見かねて、そしらぬ顔をしていましたが、あまりにも飢がひどいので、時々にぎりめしを作ってそっと台所に置いておきました。ある日私はそのにぎりめしを持ち去るのにでくわしました。彼は私の顔を見るなる「シェシェ」と感謝を込めて頭を下げました。捕虜は決してそのにぎりめしをひとりじめしませんでした。一口ずつ分けあっておいしそうにたべる姿を見て、彼等の同胞愛の深さに感心しました。
 昭和十九年、神戸は大空襲を受け、三宮から元町通一帯が火の海と化しました。私の住まいも火の手がのびて危険な状態になりました。町内の住民も避難して無住無人の町となっていますから消火に当たるものもありません。捕虜監視員もどこへやら逃げ出して姿がない。捕虜も避難しだした時、私は防火に協力してくれるよう訴えましたところ、日本語のわかる隊長らしい人が気持ちよく承知してくれ、「この家は必ず守りますよ」とみんなを指揮し、私と共に町内の消火ポンプを引き出し防火に当たり延焼をくいとめました。まさに日中両国人民の共同行動でした。
 この空襲後、私達の家族は明石に疎開し、中国人捕虜も海岸通に移動しました。
 まもなく八月十五日の終戦となり、私達は疎開先から帰って来ましたが、街は毎日毎日騒乱の中で、おびえて生活しなければなりません。
 捕虜の隊長はある日突然軍装して私達の前にあらわれ、「今まであなた方に大変お世話になった。あなた方の生活は必ず守りますから安心して下さい。食料はあるか、煙草はあるか、不自由なことがあれば私が確保するから」と親切に私達の身の上を案じてやさしい心づくしをしてくれました。私は、ついこの間まで捕虜に加えた日本人の虐待をお詫びすると、「あなた方が悪いのでない。中国人と日本人がこれからはしっかり手を握り合わない限り日中両国の平和と繁栄はありませんよ」と力つよく確信をもって私に説くのでした。
 それから暫くしてその人達は神戸港を後にして帰国したと聞きました。
 一九五一年五月、日中友好協会神戸支部準備会が、捕虜収容所であった私の旅館の一室で発足し、私も委員の一人として参加しましたのは、あの隊長の言葉がこんどは私の確信になったからです。(終)

資 料/F氏の証言/西出政治「戦後の港湾労働」
(神戸史学会『歴史と神戸』第44号(1970.10)所収より抜粋

 戦時中の中国人強制連行の記録『草の墓標』(昭和39年刊)の中に次のような記述がある。
 神戸船舶荷役株式会社に労役されていた中国人の平均一日の就労時間は十時間。二十四時間の徹夜作業もしばしばであった。海岸宿舎と名付けられた倉庫の中は、ワラむしろを敷いてその中に押し込め、冬でも暖房の設備はなかった。
 日本軍占領地域にいた中国人の日本への強制連行は、昭和十七年十一月二十七日、東条内閣の閣議で「華人労務者内地移入に関する件」として決定された。翌十八年四月から実施され、九月九日神戸船舶荷役会社に二一〇人が到着。最も大量に投入されたのは十九年二月十八日の次官会議決定以後。神戸における受入れは、連行者九九六、転出者三三〇、死亡一七、となっている。
 俘虜の使用について『三井倉庫五十年史』(昭36)に次の記事がある。
 この頃になると労働者の不足が漸く目立ち、これを補うために俘虜の使用が始められた。これは同年(十七年)十一月二十一日公布即日施行された陸軍省令俘虜派遣規則によるものであって、当社では神戸市店及び大阪支店の埠頭桜島倉庫に多く配置され、その他の支店でも臨時の使用が行われた。
 これは文字通りの俘虜であったか、当時、強制連行者は一般に俘虜として見られていたから、混同された数字かも知れない。当時、神戸船舶荷役会社で俘虜の労務係を担当していた班長格のFさんは、次のように語ってくれた。
 私の受持っていた中国人俘虜は、三越の山側の北長狭にバラックがあり、約六十人の人数がいた。朝六時ごろ起床、仕事は七時ごろからで、今の第七突堤の所で、小型鋼船に積んで入港して来る台湾や朝鮮からの、米の荷役を主としていた。大型貨物船は、港内外に機雷が浮遊していて危険で航行ができなかったし、戦争末期にほとんど沈んで、なかったのかも知れない。
 大きくても四、五百トンの鋼船か、二、三百トン程度の機帆船が近海航路や内航に就航している以外、大型貨物船はほとんど見ることができず、たまには戦時標準型の船も入港することもあった。当時は神戸港の東のはずれ、埋立て半ばで戦争で放り出したままになっていた赤土の土砂、それも長い間中止されていた突堤工事を示す荒れ放題一角で荷役が行われていた。
 軍から労役人夫として配属された俘虜は神戸船舶会社の労務部長の配下にあり、約二十人に一人の割で日本人の熟練した古参株の班長がついていた。ウインチやデッキマンは日本人の場合も、また中には俘虜がやっている班もあった。焼玉エンジンのウインチは操作の難しい機械である。俘虜の中には機械の操作を覚えて上手に使う者もいた。
 Fさんは中国人俘虜から、大人大人と親しまれ慕われていた。米の荷役の時は、荷役中こぼれた米をみんな少しずつ隠して持ち帰っていた。腹の中に巻いたり、足袋にかくして来た。宿舎での食事はトウモロコシと米と半々ぐらいで改善協会という給食場から支給されていた。日本人と同じ食べ物であったが、重労働を満たす栄養をとることのできるような物ではなく、副食は漬物と味噌か塩汁。たまに出るスケソーダラや干物・丸干の魚は大変なごちそうであった。そんなとき俘虜は持ち帰った米をみんなで集めて缶詰の空缶や洗面器で飯を炊いて、かくれて食べるのが何よりの楽しみだったようである。異国の土地に俘虜として強制的につれて来られた連中にしては、割り合いに楽天的だったようである。宿舎は殺風景ではあったが清潔にしてあったし、たまには故国をしのぶ唄声が聞こえてくることもあったが、日本人との接触は仕事場や病気見舞い以外は厳しく取締られていた。憲兵の目が光っていたことは申すまでもない。
 宿舎には寮長がいて夜の番人として監視をしていた。仕事は朝七時ごろから始まり、寮には夕方五時には帰れるように作業をやめ、深江や仁川の川西航空などに仕事に行くときの往復は電車を利用していた。中国の草色の軍服から俘虜であることが一目でわかるシナ軍の下士官が、一個班に一人ぐらい追廻しとして選ばれ指示をしていた。通訳はいない時の方が多いので、手まね足まねで、片言の日本語、シナ語で、けっこう通用していたそうである。
 作業が終わった後は神戸港運会社の警備員が、カンカンと言って、俘虜が何か持帰りはせぬか、体にさわって検査をした。Fさんは警備員に「あまりきびしくすると使うのに困るから、そこそこにしてやってくれ」とたのみ、少々のことは大目に見るようにしていた。米の持帰りなどもそうで、そんな時、日本人も食糧不足で困っていることをよく知っていた俘虜は、Fさんにこれは大人の分だ、と分け前を出したりし、断るのに困ったという。
 俘虜は空襲があると、今に日本は戦争に負ける、私たちは中国に帰れる、と喜んでいた。敵機が頭上に来てもなかなか防空壕にはいりたがらず飛行機を見つめていた。俘虜の下士官が棒を持って防空壕にはいるよう追い廻すがなかなか聞かず、川西航空と深江で一人ずつ空襲で死んだ。
 昭和二十年八月十五日、日本敗戦。俘虜は大いに喜んだ。警備の人の一部や昨日まで手荒く俘虜をこき使った人で姿をかくした人もいた。
 Fさんは終戦後も以前使っていた俘虜が時々呼びに来た。そして日本人は食べ物に困ってるだろう、と自分たちで作ったマントウやたばこなど、何度か貰って家に帰った。昨日までの主客が転倒した。病気だった俘虜の一人は終戦後も山手の隈病院に入院していて、後に和歌山の白浜温泉に治療に行ったと聞いたが、その後の生死はわからない。
 敗戦後、戦勝国としてずいぶん威張った者もあったらしいが、朝鮮人よりははるかに穏和だったそうである。(以上)

フィールドワーク/「いかり」ツアー
7月20日(木)[海の日で休日です]

○行程−すべてバスにて移動
 ポートタワーより神戸港一望→弁天浜(旧寄せ場跡)→三菱・川崎造船所(旧強制労働現場)→新華寮(連行された中国人の宿舎跡)→隈病院(連行された中国人を診療)→東福寺(無縁仏を収容)→ポートアイランド公園(神戸港殉職者顕彰碑)
○集合:ポートタワー下13時
○解散:JR三宮駅17時
 その後懇親会
○費用 2000円
○連絡先:「神戸港調査する会」事務局  078-851-2760、fax 078-821-5878
○申込みが必要です。事務局まで

ホームページができました

 神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会のホームページができました。
 内容は、更新情報|規約|構成団体/運営委員|ニュース|参考文献−−などで、集会の案内もします。今後さらに内容の充実を図るために、ホームページ協力者を募集しています。
 ホームページURL、http://www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/kobeport.html
 (神戸港|強制連行で検索をかけても出てきます)

 神戸強制連行現地調査のための募金をお願いします。

 いよいよ今年夏から秋にかけて中国および韓国に生存者・遺族をたずねる現地調査を

行ないます。現地調査のためにの募金にご協力をお願いします。
  募金額 50万円
  送金先 郵便振替<00920-0-1508701 神戸港調査する会>

編集後記

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