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「いかり」第1号
神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会ニュース
〒657-0064 兵庫県神戸市灘区山田町3-1-1 (財)神戸学生青年センター内

TEL 078-851-2760 FAX 078-821-5878 E-mail rokko@po.hyogo-iic.ne.jp

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ニュース発刊にあたって 調査する会代表・安井三吉

 みなさん、今日は。
 昨年10月に会を結成して、すでに3か月がたちました。この間、結成大会、運営委員会そして朝鮮、中国などの各グループの集まりがそれぞれ精力的に活動が展開されています。
 朝鮮関係にしても、中国関係にしても、ゼロからのスタートというわけではなく、それぞれすでに広汎な調査と厚い研究の蓄積があり、また、各メンバーもやる気満々の方々ばかりです。この面で私などは初心者に近く、みなさんの邪魔をしないことが一番の勤めだと自覚しております。一応3年で成果をまとめようという一種のプロジェクト方式の会だと理解しておりますが、3年は、長いようであっというまに過ぎてしまうだろうと思います。
 さて、神戸はしばしば国際都市と呼ばれてきましたし、市民の方々の多くもそのように思っています。明治開港以来の歩みからは、たしかにそうもいえましょう。とくにアジアの人々との交流という点では、誇るべきことが多々あります。ただ、歴史は単純なものではなく、往々にして明るい面は陰を伴うものです。私たちがこれからやろうとしていることは、ある意味では近代神戸の陰の面を表に出すことになるかもしれません。しかし、これも神戸の一面なのです。光と陰の両面を明らかにしてこそ、神戸は21世紀に向かう国際都市として自らを誇らかにアジアに向かってアッピールすることができるのではないでしょうか。私たちがこれからやろうとしていることは、このような意義があることと思います。ご協力をお願い致します。2000年1月30日/代表 安井三吉

「調査する会」がスタートしました−本会発足までの経過報告−/事務局長 飛田雄一

 昨年10月14日、神戸学生青年センターホールで「調査する会」の発足集会が開かれた。兵庫県下の16団体(1月末現在、次頁参照)によって構成される本会はこれから3年間程度を活動の期間として調査活動を行なおうとしている。本会は開かれた会をめざしており、新しく加わってくださる団体・個人を募っている。また運営委員会(次頁参照)は毎月原則として第2木曜日にセンターで開かれており、運営委員への参加も求めている。
 神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行の調査は、これまでほとんどなされてこなかった。1950年代に中国人強制連行犠牲者の遺骨返還運動が行なわれ、兵庫県でも1957年10月19日、兵庫県殉難中国人慰霊祭実行委員会(委員長・阪本勝)主催による慰霊祭が神戸市中央区の関帝廟においてして開かれている。(『兵庫県殉難中国人慰霊と殉難詳報』1957.12.15参照)また、兵庫県下の朝鮮人強制連行に関しては兵庫朝鮮関係研究会、むくげの会等によって1980年代から調査が進めらてれきたが、神戸港の調査までには至らなかった。
 1996年4〜5月王子ギャラリーで開催された南京大虐殺絵画展を契機に結成された「神戸・南京をむすぶ会」(代表・佐治孝典、事務局・神戸学生青年センター内)は、南京大虐殺幸存者の証言集会等を開いてきたが、昨年3月19日には大阪港の中国人強制連行をテーマに勉強会(講師・櫻井秀一氏)を開催した。神戸・南京をむすぶ会はそこで提起された神戸港における中国人強制連行の問題にとりくむことを決定した。6月には東京華僑総会所蔵の日本港運業界神戸華工管理事務所・神戸船舶荷役株式会社『昭和二十一年三月華人労働者就労顛末報告書』の復刻版(2000円〒380円)を発行し、また7月27日には、神戸港からさらに石川県七尾港に再び強制連行された黄国明さん(河北省原陽県在住、、78歳)が七尾に来られた際には神戸にも来ていただき、神戸港の現地調査と証言集会を行なった。55年目に神戸を訪れた黄国明さんは当時寮と労働現場との往復だけで街の記憶をよびさますことはできなかったが寮の位置等を確認することができた(別稿参照)。
 黄国明さんの来神を契機に神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会の準備がすすめられ、9月の始めに安井三吉(神戸大学教授)、徐根植(兵庫朝鮮関係研究会代表)、林伯耀(神戸・南京をむすぶ会運営委員)、飛田雄一(神戸学生青年センター館長)の4名による呼びかけが行なわれ、10月14日の「調査する会」結成にいったのである(会長・安井三吉、副会長・徐根植、林伯耀、事務局長・飛田雄一)。始まったばかりの会であるが、実りある調査活動を展開したいと願っている。多くの方々の参加を期待したい。

※「調査する会」の年会費は、一口個人3000円、団体5000円(年度は10月〜9月)申し込みは郵便振替<00920-0-1508701 神戸港調査する会>でよろしくお願いします。)

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  「調査する会」規約

1.<名称>本会は「神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会」(略称・神戸港調査する会)と称する。

2.<事務所>本会の事務局は、財団法人神戸学生青年センター内におく。

3.<目的>本会は、神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行の実態を調査し、もって東アジアの平和に寄与することを目的とする。

4.<会員>本会はその趣旨に賛同する団体および個人会員によって構成される。

5.<役員>本会には、代表1名、副代表2名、事務局長1名をおく。

6.<運営委員会>本会の運営を円滑に行うために運営委員会をおく。

7.<財政>本会の財政は、会費・寄付金等による。

8.<会費>団体会費は、年一口5000円、個人会員は、年一口3000円とする。会計年度は10月より翌年9がつまでとする。

  活動方針

1.<運営委員会>運営委員会を月1回程度開き、そこで会の運営について協議するとともに調査活動の報告を行う。

2.<調査報告会>年2回程度の調査報告会を開き、調査活動の成果を共有するための場とする。

3.<総会>年1回、総会を開催する。(上記調査報告会を兼ねる場合もある)

4.<ニュース>活動を報告するニュースを適宜発行する。

5.<出版>調査結果を単行本として出版する。

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    <参加団体名簿>( )内は代表者、2000年2月10日現在、50音順)

1. 神戸・南京をむすぶ会(佐治 孝典)

2. 神戸華僑総会(林 同春)

3. 神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会(徳富 幹生)

4. (財)神戸学生青年センター(飛田 雄一)

5. 兵庫県在日外国人教育研究協議会(安保 則夫)

6. 兵庫県朝鮮人強制連行真相調査団(朝鮮人側)(安 致源)

7. 兵庫県在日外国人保護者の会(申 点粉)

8. 兵庫朝鮮関係研究会(徐 根植)

9. (社)兵庫部落解放研究所(領家 穣)

10. 在日本大韓民国民団兵庫地方本部権益擁護委員会(林 茂男)

11. 在日コリアン人権協会・兵庫(孫 敏男)

12. 在日研究フォーラム(李 相泰)

13. 在日朝鮮人運動史研究会関西部会(飛田 雄一)

14. 在日韓国学生同盟兵庫県本部(姜 晃範)

15. 自立労働組合連合タカラブネ労働組合神戸支部(島田 隆明)

16. 日本中国友好協会兵庫県連合会(宗田 弘)

17. むくげの会(堀内 稔)

18. 旅日華僑中日交流促進会(林 同春)

    <運営委員名簿>(2000年2月10日現在、50音順)

1.  上田 雅美/日本中国友好協会兵庫県連合会

2. 姜 範/在日韓国学生同盟兵庫県本部

3. 金 慶 海/兵庫朝鮮関係研究会

4. 金 英 達/兵庫朝鮮関係研究会

5. 小松 俊朗/神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会

6. 佐藤 加恵/神戸・南京をむすぶ会

7. 申 粉/兵庫県在日外国人保護者の会

8. 徐 元 洙/兵庫朝鮮関係研究会

9. 徐 根 植/兵庫朝鮮関係研究会

10. 孫 男/在日コリアン人権協会・兵庫

11. 高木 伸夫/在日朝鮮人運動史研究会関西部会

12. 徳富 幹生/神戸電鉄敷設工事朝鮮人犠牲者を調査し追悼する会

13. 朴 子/

14. 飛田 雄一/(財)神戸学生青年センター

15. 黄 男/在日コリアン人権協会・兵庫

16. 堀内  稔/むくげの会

17. 宮内 陽子/兵庫県在日外国人教育研究協議会

18. 村田 壮一/神戸・南京をむすぶ会

19. 門永 秀次/神戸・南京をむすぶ会

20. 安井 三吉/神戸大学教授

21. 梁 相 鎮/兵庫県朝鮮人強制連行真相調査団(朝鮮人側)

22. 吉澤 惠次/(社)兵庫部落解放研究所

23. 李 相 泰/在日研究フォーラム

24. 林 耀/旅日華僑中日交流促進会

神戸港に強制連行された黄国明さんの証言

【編集部】黄国明さんは1921年2月5日、河南省陽武県(現在の原陽県)官厰郷回回営村うまれ。1944年強制連行されて神戸港と石川県七尾港で強制労働を強いられた。『事業所報告書』によれば、華北労工協会によって「訓練生」として連行され、1944年10月22日青島から下関(1944.10.28)、経由で10月30日神戸に着いている。翌1945年旧正月は神戸で迎えたが、空襲が激しくなると、同年4月27日七尾港に連行されそこで解放を迎えた。黄国明さんは旧姓「黄中正」。『事業所報告書』にはそのように書かれている(243頁)。「中正」は蒋介石の本名なので、中華人民共和国成立後の登録(「 選民証(IDカード)」)の時に「黄国明」と改名した。また、同書で強制連行時の年齢が17歳となっているが23歳の誤りである。
 すでに調査活動を始めている「七尾強制連行問題を調査する会」が昨年7月3名の幸存者(中国では生存者のことを被害にあって幸い生き延びたという意味でこういう)を含む8名を招待したが、その一人が黄国明さんだった。黄さんを神戸に招きたいという神戸・南京をむすぶ会の要望を七尾の会が受けてくださり黄さんの来神が実現した。以下は黄国明さんの証言である。(右の写真はポートタワーより神戸港を見る黄国明さん。右は同行の息子さん)

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私は陽武県の農民だったが、犬でも盗まれるというような苦しい時代で、生活が苦しくて地元の自衛隊「5支隊」(紅枹会?)に入った。そこで仕事をしていたので新しい軍人と間違われた。日本軍は5支隊を日本軍に所属させるつもりだったが、5支部隊の思想が変わってそのようにならなかった。日本軍は危ないと思って私たちを捕まえた。銃剣をつきつけられ、服に紐を通されて中学校の前に集められた。それから列車に乗せられて済南へ行った。人数は多かったが何人いたかは分からない。済南の新華院は、ひどいところだった。ガソリン缶を埋めて見えないようにする仕事をしていた。白菜の外の皮をとって食べたのが見つかってトビで頭を割られた人もいた。
 済南から列車に乗せられ、青島では列車から直接船に乗せられた。下関まで10日間かかったが、食事はトウモロコシの粉でつくった餅のようなものだった。下関で消毒液の中につからされてから列車で神戸に運ばれた。
 神戸に着いてから宿舎に直接行った。宿舎には吹き抜けのようなものがあった。何日かは仕事がなかったが地下足袋を支給されてからすぐ仕事が始まった。仕事は岸壁についた荷物を倉庫に運ぶ、または倉庫の荷物を船に運ぶというものだった。朝4時に起こされて夜12時まで働くことがあった。米、豆、トウモロコシなどを船に積みこむ仕事をさせられた。100キロぐらいの荷物だった。中国の貨幣、「ウタ?(中国のドラ等の楽器)」を運んだこともある。
 大きな船があったことは覚えている。造船所があったことも覚えている。しかし日本人の監督が中国人を行進させて連れていき、仕事が終わるとまた宿舎へもどるというくりかえしで、他との接触はほとんどなかった。空襲で高架下のようなところに逃げこんだ記憶があるが、職場からか寮からか覚えていない。
 食事は基本的に宿舎ではなく職場でした。朝も労働してから職場で食べた。一日3回の食事だったが、一回にまんじゅうが2個で、お腹がすいてゴミ箱からミカンの皮を拾って持って帰り宿舎で食べたことがある。米袋から生米をこっっそり抜き取って食べたこともある。お風呂には入ったことがない。外出もしたこともない。お金もくれないし寮のなかで「買物券」を使うだけだった。「ヤスメ」「サンジュッキロ(30キロ)」「メシ」という日本語を覚えているが意味は知らない。
 当時労働が大変で、責任者には憎しみをもっているが、一般の日本人に対してはあまり接触がなかったし、何かひどいことをされたことはないし、悪い感情は抱いていない。

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【編集部】黄さんの宿舎は記録によると新華寮。神戸駅北東に宇治川商店街の南端から東へ200メートルぐらいのところだ。「吹き抜け」ではないが、図面には木造3階建の寮は真ん中が吹き抜けのようにあいている。証言集会のとき私たちが手カギと麻袋(ポリ袋だか)を購入し、中に新聞紙をつめて黄国明さんにどのようにして運んだのかとたずねた時、「袋を肩にのせ、幅の狭い板の上をリズムをとりながらこうして運んだのだ」と実演してくれた。その本当に軽い身のこなしは黄さんの年齢を感じさせないすばらしいものだった。来神時、神戸港のポートタワーに登ったが「どこで働かされていたのかなど全くわからない」とおっしゃっていた。

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文献研究報告
中国人強制連行と神戸港「事業場報告書」についての覚書/村田壮一

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1はじめに

 この報告は、神戸港における中国人強制連行を調査するにあたり、基礎的な資料となる「華人労務者就労顛末報告書」(日本港運業会神戸華工管理事務所、神戸船舶荷役株式会社、1946年3月、神戸・南京をむすぶ会が復刻版を発行)の内容を把握することを目的にしたものです。しかし、筆者自身まだ勉強不足であり、同報告書のすべてをまとめるに至っていません。強制連行についての認識もまだ浅く、参考文献の整理などもできておらず、不十分とのそしりを免れません。みなさんにはこの報告を、事業場報告書を理解する一つの端緒と受け取っていただき、ご批判をいただきながら確固としたものしていきたいと思いますのでよろしくお願いします。

2中国人強制連行の全国的な概要

 日本による中国人強制連行については、1942年11月27日に「華人労務者ヲ内地ニ移入シ以テ大東亜共栄圏建設ノ遂行ニ協力セシメントス」との閣議決定がされた。その後、試験移入を経て44年2月28日に本格移入の開始を次官会議で決定した。これにより中国人強制連行は、日本の民間業者の任意的な取り組みや中国人の自由意志による渡日として始まったことではなく、日本政府の確固とした政策によって行われたことが分かる。
 試験移入を含む実際の移入は43年4月から45年5月まで行われた。判明分では、38935人が移入され全国の港湾、鉱山、工場といった135の事業場で使役され、その間17%に及ぶ6830人が死亡している。
 対象の中国人を集めた供出の形態としては4種類が挙げられている。「行政供出」は日本の傀儡である中国の行政機関が県、村ごとに人数を割り当て供出の責任を負わせたもの。「訓練生供出」は日本軍が捕らえた捕虜を労務者として供出したもので、一般男性を供出目的で軍が捕らえた実態も指摘されている。「自由募集」は中国人労働者一般から希望者を募集したものとされ、「特別供出」は供出先の事業場と同様の労働をしている人を集めたものとされている。
 全体の供出数に占める割合は「行政供出」が24050人と約62%を占め、次いで「訓練生供出」が10667人(約27%)で、この2形態で9割近くに及んでいる。

3神戸港報告書について

(1)神戸港報告書の背景

 神戸港における中国人の使役は、日本港運業会神戸華工管理事務所と神戸船舶荷役株式会社が受け入れて行われた。両者は戦時経済下の統制団体。同様の組織が全国の港湾に置かれ「華工管理事務所は、中国人を管理し、港湾荷役作業に際しては、担当の荷役会社に渡し、作業終了後は、業者から華工管理事務所の手に渡されるという仕組みになっていた」(全日本港湾労働組合「全港湾労働史(第一巻)」72年5月)という。
 その両者が連名で戦後の46年3月に作成したのが「華人労務者就労顛末報告書」(以下神戸港報告書)である。この種の報告書は中国人を使役した全国の事業場が作成しており、一般に「事業場報告書」といわれる。外務省が中国人連行、使役の実態を把握するために各事業場に報告を指示したもので、さらに外務省は現地に調査員を派遣して実態調査にあたらせた。それらを基に外務省が作成したのが「華人労務者就労事情報告書」(46年3月1日、以下外務省報告書)である。
 これらの資料は中国人強制連行の資料としては今のところ最も基礎的なものとされる。事業場報告書には連行された中国人名簿(個人別就労経過調査表)が添付されており、現在、各地で行われている調査活動のベースになっている。しかし、外務省報告書は中国やGHQからの戦争責任追及に備えて作成したものとされ、事業場報告書についても、事業場に都合のいい記述が多いとの指摘がある。

(2)神戸港における中国人強制連行の概要

 外務省報告書、神戸港報告書などから分かる神戸港での強制連行の概要は以下の通りである。
 移入は43年9月から44年11月まで行われ総数は996人。出身地は河南省、河北省、山東省、江蘇省などで、年齢構成は10代から50代までとみられる。移入途中や移入後に17人が死亡した。途中、函館、敦賀、七尾の各港湾に計330人が転出。残った646人が戦後の45年11月に中国に帰還し、3人が日本に残留したとされている。
 供出機関は大連福昌華工株式会社、日華労務協会上海事務局、華北労工協会の3機関となっている。

(3)神戸港での移入状況、死亡者・病気・傷害について

 神戸港報告書は、移入配置や送還、受け入れ施設や給与などを記した本文と、死亡診断書、個人名や出身地を記した個人別就労経過調査表などからなっている。本文は移入時期や供出機関別に第一号から第四号までに分かれている。ここでは移入状況や、死亡、病傷についての記述をまとめたい。
 第一号は、43年9月から44年4月まで203人(外務省報告書では210人)が使役された。供出機関は福昌華工株式会社で、供出方法は「特別」。試験移入段階で実施されたもので、本国で同様の労働をしていた人たちが対象だったとして「試験的ニ移入シタルモ滞在中ハ功績顕著」(復刻版36p)とし、不具廃疾者、死者の発生はなしとしている。しかし、不具廃疾者調書や個人別就労経過調査表などは「書類焼失ノタメ作成ナシ難シ」(27p)としている。
 第二号は、44年5月から45年4月までで、移入数は203人。供出機関は福昌華工株式会社で、供出方法は「自由募集(外務省報告書では特別)」。急性肺炎と胃癌で2人が死亡(いずれも私病)し、1人が脊髄骨折(私病)とされている。脊髄骨折の患者と付添いの計2人が日本に残留し、199人が帰国した。
 第三号は44年9月から45年11月までで、移入数は133人。「自由募集」で供出機関は日華労務協会。1人が胃癌で死亡。途中45年(外務省報告書では44年)12月、130人が函館に、45年2月に1人(通訳)が敦賀に転出し、残った通訳1人が帰国している。外務省報告書によると、函館に転出した130人のうち、47人(約36%)もが函館で死亡している。
 第四号は、移入時期によって1次と2次に分けられている。いずれも供出機関は華北労工協会。1次分は44年10月に「元俘虜」300人が移入。8人が死亡(私病6人、公病2人。)2次分は44年12月に行政供出で150人が移入。7人が私病で死亡との記述がある。ただ、第4号の場合、死者数や内訳などで個所によって記述に矛盾がみられる。第四号全体として不具廃疾者2人(作業中右足切断、トラホームによる失明)。45年2月に99人が敦賀に、同年4月に100人が七尾に転出。236人が帰国し、通訳1人が商業希望で残留している。
 以上の概要から分かることは、戦争末期の第四号分で神戸での死者が急増していることである。また、第一号で「概シテ良好」(26p)とされた健康状態が、第四号では「疾病、既往症多ク気候風土ノ相違ニ依リ病勢催進セシモノ多シ」(104p)「受入当時、眼病、皮膚病患者甚ダ多ク体格ハ概シテ劣等」(106p)と急激な悪化が記されている。第一号の健康状態がどれだけ「良好」だったかは検討すべきにしても、第四号時期の移入前後の条件の劣悪さがうかがえる。

(4)そのほかの記述と検討課題

 本文では、前項でまとめた内容のほか、施設や労務事情など多岐にわたる記述がされており、分析が求められる。しかし連行の強制性を裏付ける上で重要な供出実態についての記述はなく、また随所に「酷使ノ事実絶対ニナシ」と記し、賃金についても「華工ヘの実際給与ハ当方ニハ不明」(32p)などとしている。死因や不具廃疾者についても死因や公私の区別などを含めて、添付されている死亡診断書の検討や聞き取り調査が不可欠である。
 なお、神戸港報告書には十分な目次がなく、このままでは大変読みにくい。筆者がいちおうの目次を作ったので、ご希望の方にはお分けします。

4今後の調査について

 文献調査と同時に、被連行者の生存者や遺族を探し、当事者への聞き取り調査をすることが欠かせない。現在、神戸港報告書の個人別就労経過報告書や中国で調査にあたっている張中杰氏、七尾のグループから提供されている名簿を参考に、郵送可能な人300人余に生存調査とアンケートの手紙を送る準備を進めている。みなさんのご協力をお願いします。

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文献研究報告
神戸船舶荷役鰍フ朝鮮人労働者/金英達(兵庫朝鮮関係研究会)

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(1)「神戸船舶荷役株式会社」とは

 『神戸開港百年史 港勢編』(神戸市、1972年刊)などの資料によれば、第2次大戦中、経済活動の戦時統制のなかで、1941年9月の港湾運送業等統制令により日本の主要港の港湾事業において1港1社制の統制方針が打ち出された。それにともない神戸港では、港運事業の再編成がなされ、1942年12月に統制会社として神戸港運株式会社が設立され、その船内荷役業の下請会社として神戸船舶荷役株式会社(神戸市生田区波止場町)が同じく1942年12月に設立された。船内荷役労働者のことを一般に「沖仲士」と言う。
 そして戦時の港湾労働力の不足解消のため、1942年から連合国軍の捕虜を港湾労働に使用する一方で、神戸船舶荷役株式会社には、1943年から日本軍占領地域の中国人を「行政供出」などの名目で強制連行するとともに、1944年から朝鮮人を「官斡旋」の方式の労務動員により集団移入した。
 なお、神戸船舶荷役株式会社は、戦後の1949年6月にGHQの独占企業解散命令により解散させられている。したがって、解散時の清算手続によってすべての債権債務が消滅しているならば、この会社を法的に継承している法人はないものと思われる。

(2)いわゆる「厚生省調査報告書」とは

 敗戦とともに国家総動員体制が崩壊して徴用を解除された集団移入朝鮮人は、就労先の事業所において賃金・手当・預金・厚生年金などの十分な清算がなされないまま、朝鮮半島の故郷への帰還を急いだ。日本政府は、朝鮮人側からの法によらない“不当な補償”の要求は拒否するように指示するとともに、各種の未払金については供託によって処理するように通達した。
 これにともなって厚生省勤労局は、1946年6月17日付勤発第337号「朝鮮人労務者に関する調査の件」〔未公開〕によって、全国の勤労署を通じて戦時中に朝鮮人労働者を雇傭した事業所から、名簿・入退所・未払金などに関する報告書の提出を命じた。この1946年の厚生省による戦時動員朝鮮人労働者に関する調査によって作成された資料を、中国人に関する「外務省調査報告書」の名称にならって、便宜上「厚生省調査報告書」と名付けているのである。
 中国人に関する「外務省調査報告書」は、連合国軍側の戦犯追及に備えて“申し開きをするための材料を整える”目的もあって、就労状況につき詳しい内容が含まれているが、朝鮮人に関する「厚生省調査報告書」は、もっぱら未払金の処理に対応する目的で作成されたものなので、内容はきわめて簡略である。

(3)神戸船舶荷役株式会社の厚生省調査報告書の概要

 名簿人員 計148人
 いずれも創氏改名後の創氏名であり、うち日本人風の氏の設定創氏名が119人、朝鮮の姓が氏の法定創氏名が29人である。
 入所経路 148人全員が官斡旋
 入所年月日 1944年9月10日 65人、同年9月14日 24人、同年12月23日 59人
 職種 沖仲士
 退所事由
 死亡 1人、病気送還 10人、逃走 27人、帰国 110人(1945年10月8日)
 年齢 1944年の入所年において、最高年齢者は54歳、最小年齢者は14歳。
   50歳代 2人、40歳代 10人、30歳代 32人、20歳代 66人、10歳代 38人
 出身地(本籍)
 忠清南道 錦山郡 82人
 全羅北道 金堤郡 60人
       鎮安郡  2人
      井邑郡  1人
   高敞郡  1人
 慶尚南道 居昌郡  1人
 本籍不明      1人
 未払金
 記載なし
 退所時の待遇・厚生年金保険(脱退手当金)給付
 「退所時に於いては休戦と同時に就労せざるため就業案内に基き日給4円30銭、精勤手当25円、家手当(年齢別に依る)を支給せり。厚生年金保険未済。」

(4) 今後の調査

 いまのところ「厚生省調査報告書」が最も重要な手掛かりであるので、韓国の本籍地の役場あてに照会文を郵送して、戸籍簿調査を通じて本人もしくは親族を探す。何人かについては、連絡が取れる可能性は大いにあると考えている。
 その一方で、神戸港、港湾行政、労務動員など関係方面の資料を広く探索していく予定である。ある程度の資料が収集できた段階で小冊子の資料集を刊行したい。
 (2月15日に27箇所の韓国の面事務所等に照会文を発送した)

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文献研究報告
川崎重工業製鉄所 葺合工場への朝鮮人強制連行/金慶海

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はじめに

 戦時中に神戸市内の15の軍需工場に、約5,000名以上もの多数の朝鮮人たちが強制的に連行されて、奴隷的な労働を強いられた、ということが、『朝鮮人労務者に関する調査の件』(1946年厚生省の調べ。以下、「厚生省名簿」と略す)の内の兵庫県の分に記録されている。
 その15企業の内、一番多く連行されたのは、三菱重工業神戸造船所への約二千名で、その次に多いのが、この川崎製鉄葺合工場への約千四百名である。この会社の歴史をつづった『川崎重工業株式会社史』によれば、1944年には『艦船工場では約1,600人の半島出身の“産業戦士”を迎えた』と書いている(昭和34年発行 p.761)。“半島”という呼び方には、抵抗を感じるが....。
 以下は、上記の1946年に厚生省が調べた名簿を分析したものである。

T.朝鮮で強制連行をしたところ

 右の地図を見ながら、以下の統計を読んでほしい。
 江原道で499名が断然トップ。道別の人数と順位は以下のようだ。
 平安北道が404名、咸鏡北道が294名、黄海南道が136名、黄海北道が66名、京城府が1名で、総合計は1400名になる。この数字は、前述の社史の「約1,600人」とは合わないが、どちらが事実なのかは解らない。
 この統計で解るのは、今の共和国地域(=北朝鮮)の出身者が絶対多数だということだ。
 以下の全ての統計数字は、《1,400人》に便宜上統一する。

U.連行された人たちの年齢

 「厚生省名簿」に書かれている年齢が、数え年なのかどうか、工場に連れてこられた時のか、解放後に記録した時の年齢なのか、定かでない。ここでは、「厚生省名簿」に書かれてる年齢に従った。
 17歳から20歳までが161名(全連行者の11.5%)、21歳から25歳までが818名(同58.4%)26歳から30歳までが314名(同22.4%)。最高齢者は48歳で1名。つまり、一番働き盛りのトシ(17歳〜30歳)の人々が1,293人で92.3%にもなる。

V.連行された時(この工場に朝鮮人労働者が連れてこられた時と思われる)

 この工場に連行されてきた時期と人数は、次のとおり。
 ・1943年の1月11日に104名、3月21日に100名、3月27日に100名で、その他を合せると、この年には合計ちょうど五百名が連行されてきた。
 ・1944年の3月18日に131名、3月26日に105名、10月24日に135名、12月5日に320名で、その他を合せると、合計764名になる。
 ・強制連行は、日本の敗戦が目前に迫った1945年にもあって、その年の4月9日には136名が連れてこられた。

W.“退所”(“退所”とは原文のままで、この工場から出ていったこと)

 この工場を去った理由は様々だが、それを大きく分けてみると次のようになる。
 @“自由”帰国者は('45年7月から11月にかけて、自費で帰国した人々のこと)7/25の2名を含めて合計は446名で31.8%。ほとんどは、日本の敗戦直後の時期に自費で帰国している。川崎製鉄が強制的に連行してきたのだから、当然、彼らの帰国の便宜をはらうべき義務があるにもかかわらず、それを放棄したということだ。
 この自由帰国者以外の連行者の動向は、次のとおりである。
 A退職者、一時帰国した者、契約が満期になって帰国した人たちは、合計で401名。
 B朝鮮に“不良”として送還された人が8名、病気として送還された人が21名で、この二つの送還者の合計は29名になる。
 Cこの工場で仕事をしている途中に日本軍に入隊させられた人は、10名になる。
 Dこの工場で働いている時に死亡した人は、合計で26名になる。
 その死亡者の原因と人数の内訳は、次のとおりである。
 病気で亡くなった人が11名、仕事中に犠牲になった人が6名、原文にある“戦災死”(多分、米軍機の空襲による犠牲者たちと思われる)は、3/26 に1名,6/5に3名,6/6に1名,6/25に1名,6/27に1名,8/6に1名,月日不明が1名で、“戦災死”の合計は9名になる。
 E“逃走”(この工場から逃げた人たち)の合計は、461名で全連行者の32.9%にもなる。
 連行が始まった'43年の2/5に1名があったように、この年の合計は40件で69名になる。
 '44年の合計は59件で106名、'45年には敗戦までの8か月のあいだに67件で286名、20.4%にもなった。
 この逃走行為が、米軍の空襲があった時とかさなるようだ。例えば、'45年6/6の芦屋大空襲の時には65名もの多数が脱走している。芦屋の打出に連行者の寮があったが、そこの朝鮮人たちが脱走したものと推測される。

編集後記

☆初めてのニュースお届けします。内容についてご意見ございましたらどしどしお寄せ下さい。タイトルの「いかり」は、神戸港を象徴する錨と、神戸港に強制連行され過酷な労働を強いられた朝鮮人・中国人の怒りを表したものです。スタインベックの小説風に「怒りの錨」といった案も飛び出しましたが、これに落ち着きました。兵庫朝鮮関係研究会の鄭鴻永さんが、1月18日なくなられました。生きておられればこの会で活躍されたであろうと思われるだけに残念です。(堀内)

☆運営委員会は毎回15〜20名が集まり順調にスタートしています。運営委員会は個人の資格でも参加できます。原則として毎月第2木曜日です。一度のぞいてみてください。☆ホームページ www.hyogo-iic.ne.jp/~rokko/kobeport.htmlmo も近々立ち上がる予定。E-mailはrokko@po.hyogo-iic.ne.jp なかなかナウイ(この言葉が古臭い)会です。(飛田)

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